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「アディクション?」

雑記

彼はコンビニに向かっていた。寒い冬の夜のことだった。ふとタバコが吸いたくなったからだ。
彼は、筋金入りのヘビースモーカーだ。いつタバコの味を覚えたのかは分からないが、いつの間にか吸うようになっていったと言う。もう、人生の半分以上をタバコと共に生きてきた。


彼は、タバコがないと生きていけない。依存しているのだ。周囲の人間からは、やめたほうがいいよと溜息混じりに言われるが、もう無理だと彼は思っている。やめても今更遅い。多少長生きできるかもしれないが、興味がない。今を生き延びる為の、死への迂回路なのだ。

彼は、コンビニでいつも通り、わかばを買った。

よくじじ臭いだとか、年寄りかと、言われるものだったが、彼はわかばを好きで吸っている。値段が安いからとかではない。単純にニコチンを味わいたい人は、飾り気のないわかばが1番いいのだ。身体がニコチンを求めているのだ。彼にとって、他の銘柄はメンソールの味しかしない値段だけが高いものだ。フレーバーに付加価値があるのだろうけど、ニコチンしか求めていない。


彼はタバコを吸うことによって、ストレスを発散しているわけではない。よく、タバコをやめられない愛煙家達は、ストレスを発散しているのだとか言うが、彼にはその気持ちが理解できなかった。タバコを吸うことによって解消できるストレスというのは、1つしかないのだ。それは、タバコを吸わなかったことに対するストレスだけだ。つまり、ただの依存症である。アディクションだ。根本的には何も解決していない。むしろ、ストレスを増やしている。


では、彼はなぜ、タバコを吸い続けているのだろうか。ここまで依存症のことを理解しているのであれば、然るべき医療機関にでも行けばいい。依存症は病気だ。それならば、治すことができる。しかし、彼はタバコをやめるつもりはない。

実は、彼にはあまり昔の記憶がない。断片的には覚えていることもあるが、しっかり残っている記憶というのは少ない。昔の手帳などを探れば、何をしていたかは確認できるが、それが実感として湧かないそうだ。自分の記憶なのに、誰かの日記を見ているような感覚になるのだ。

彼にとって、タバコを吸うという行為は、自己の連続性を確認するための大切な行為なのだ。もちろん、ニコチンに依存している可能性はある。ただ、どちらかと言うと、同じ銘柄を吸い続けることによって、昔との共通項を探しているのだ。自己の同一性を探っているのだ。そんなことを始めて、もう長い時が経った。彼は、分からずに死んでいくのだろう。


自己というものは、妄想かもしれない。そもそも、そんなものは考えなくても存在するものなのかもしれない。答えなど然るべき時に出るのだろうか。それにしては、遅すぎるのではないか。彼は、今後どのように自己を確立していくのだろうか。

「起源」

雑記

感情というのはどこから生まれるのだろうか、外部的な要因によって作り出されているのだろうか、脳が勝手に作用しているだけなのだろうか?


例えば、Aという人物にとって悲しい出来事が起きたとする。悲しい出来事というのは、Aが尊敬していたアーティストの死だ。

(悲しみという感情がどこから生まれるのか、考える必要性があるが、ここでは考察しないこととする)

アーティストとAには直接的なつながりはない。Aはアーティストの作品を、陰ながら応援していただけだ。例えば、作品が出たら、すぐに定価で買ったり、情報の拡散をする程度のことだ。作品の感想をアーティストに述べたわけでもないし、絡みがあった訳でもない。


上記のような設定で、Aが悲しくなる理由は分からないのだが、それ以上に苦しいだとか愁訴するのだ。

百歩譲って苦しくなるのを、理解したとする。しかし、この感情はただの偽善でしかないのではないだろうか。アーティストの死に対して、Aは「アーティストの死に対して、悲しんでいる私には、まだ人間性があるな」という確認行為をしているのではないか。人の死すら、自分自身の正当性を測る道具になっているのだ。そう考えると、Aの感情は非常に気色が悪い。いや、胸糞悪い。

ただし、決めつけてはいけない。別の仮定もしてみた。今回のケースは、Aの近親者の死ではない。どちらかというと遠い存在の死である。ある程度の好意を持っていたとしても。このAの感情は疑似体験ではないだろうか。近親者ではない人の死を苦しむことによって、いつか起こりうる、近親者の死に備えようとしているのではないだろうかと。

このように考えれば、理解できないこともないが、見苦しいことに変わりはない。どちらにしても、結局、A自身のエゴにしかならないし、そのために人の死が使われているのだ。

今、考えた仮説をAにぶつけてやったらどうなるのだろうか。どんな反応をするのだろうか。どう反応しても、いい見ものであることは間違いない。

「所在はどこにあるのか」

エッセイ

私が、何か行動を起こしたとする。それは、私自身の責任の上で行なっていることとなる。何か特殊な事情がない限りは。

しかし、時々感覚というのが不安定になるときがある。私がやったという客観的事実としては認められるが、実感がない時がある。実感としての感覚がどこか遠い世界に行っているのではないのだろうかという時があるのだ。説明するのが難しいのだが、自分のとった行動であるのに、他者の記憶なような気さえすることがあるのだ。もちろん、自分自身の記憶に変わりはないのだが。

記憶というのは、何度も反復して記録しなければ、実感としては残らないのだろうか。いや、そもそも、概説的な記憶であっても、繰り返し記録したり、読み返したりしないといけないのかもしれない。何もしないと忘れる一方である。感覚というのがよく分からない。主体的な記憶の仕方が分からない。常に、客観的目線でしか、自分自身を観測することができない。もちろん、そうは言っても、主観というのはあるだろし、今このように文を表現している時点で、主観的になっていると思う。だから、主観的な感覚が無いわけでは訳ではないのだろうけど、上手い表現の仕方が見つからない。記憶の領域に踏み入るのは、まだ早かったのだろうか。