「領域a」

ここ数日、頭が割れるように痛い。「割れる」という表現は少々、オーバーであるが、彼女にとって、数日に渡っての頭痛というのは経験したことがなかった。そのため、少々オーバーな表現をした。彼女の頭痛の原因など分かりきっているのに。


あの日のままで変わらない我、


残された人の時間というのは止まってしまう。彼女もそうであった。頭痛という体調の変化は、時間が止まったように感じるそうだ。永久のごとく、押し黙った時間のようだと。そんなことはありえないし、痛み止めを飲めば、一時的に痛さは収まる。だけれども、何かを断ち切ってしまったような気がしてあまり気が乗らない。そのため、彼女は余程痛くない限りは、痛み止めを飲まない。

 

作り出された存在というのがあり得ることだとしたら。そんな空想をしたことがある。作り出されたということは、誰かにとって、都合の良い存在でなければいけない。しかし、都合の良すぎる存在というのは、不自然であるし、他者から見れば、異形の姿でしかないのだ。彼女の作り出された存在というのは、無関係な人の手によって壊された。

 

話は、戻るが、彼女が頭の痛い理由とは何か。アディクションの後遺症ままならない。空いてしまった穴を埋めるために、アディクション的行動を取るのだ。そういうのは、とある疾患の感覚に似ているらしい。そんなことをしても、何も変わらないことは分かっているのだけど。

 

加速する世界の中で、あの人たちはどう暮らして行くのだろうか。彼女は、ふと思った。手放してしまったが、情報や世間の移り変わりというのはあまりにも早い、ぐだぐだしていると取り残されてしまう。はっ、彼女もか。彼女自身も、そう思った。だからと言って、対処する術などないけど。

 

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「書くという行為」

学生にとって、ものを書くという行為は嫌な思い出と結びつくことが多いらしい。
例えば、読書感想文や、人権作文。夏休みの宿題として課されることも多いが、苦労した人も多いのではないだろうか。私も、小学生の時は、長文を書くのが苦手だったので、苦労した。しかも、課題本を、エッセイか評論で決めることが多かった。そのため、あらすじを書いて行数を稼ぐこともできず、大変苦痛な作業であった。
また、中学生や高校生になれば、反省文を書いたことがある人もいるだろう。書いたことはないが、人の反省文の手伝いをしたことはある。それは、400字詰め原稿用紙を1枚埋めるだけの作業だったのたが、それは中々大変だった。とりあえず、嘘を並べて埋めた覚えがある。あの作業は苦痛だ。
このようなことから、学生は課題以外で、長文を書くというのは好ましく行為であることが多い。

そのため、何か大量の情報を伝えたい場合、主に口を使って伝達するそうだ。(例外的に口を使って気恥ずかしい時は、文でも伝えることがあるらしい。例えば、何らかしらの暴露とか)

 口で情報を伝達するとなると、伝えた言葉以上の情報が相手に伝わることとなる。例えば、表情や、イントネーション、声の大きさなのだ。これらの要素を複合して、ものを伝えるこことなる。

文字に起こすのが面倒であったり、嫌な記憶に結びつきやすいとしても、口で情報を伝えるのは怖くはないのだろうか。

口で情報を伝えると、書く手間は省けるが、発信者が意図していない伝わり方をすることがある。それは、言葉以外の要素によって。もちろん、文字情報であっても、同じことは言える。それでも、文字情報の場合、相手に伝達する前に、読み返すことは可能だし、わかりにくい表現を避けるように気をつければいいだけの話だ。

しかし、口での情報伝達は違う。会議などで、事前に伝達する内容を考えられることもある。が、多くの場合は、考える時間など数秒しか用意されていないのだ。そういうのは、かなり怖いと思う。取り返しの付かない事態になってしまうのではないかと考えてしまう。

過去にこんな失敗をしたことがあった。

とある会議のことであった。その会議は自分自身のことについて語るというものであった。そのため、私は自分に関わりのある、青年期の若者の行動パターンの1つについて話をした。私は、とある行動パターンに当てはまった人であったし、それについての知識も自信があった。そのため、得意になって、長い尺を使い、その話をした。場にいた、年配の方の様子を見ると、受けは良かったし、満足した気分で会議を終えた。

しかし、ここで私は場にいた若者に対しての配慮を忘れていたのだ。語った内容は、かなり影響力があるものであった。特に、心理的に瀬戸際にいる人にとっては。後から聞いた話によると、私の話を聞いたことによって、心に不調をきたしてしまった人がいたそうだ。受け手自身の元々の問題もあったが、私が要因を引き出してしまったのであった。

 

それ以来、人前で真面目な話をするのがめっきりと怖くなってしまった。私の話を聞いても、影響を受けないだろう相手の前でしか、人前で真面目な話はしない。その他の人の前では道化を演じることが多くなった。道化といっても、やり過ぎない程度に、周囲に合わせるということだが。

私の話に影響を受けないだろう人というのは、以前は身の回りに複数人いた。最近は減少傾向にあるのだが。一人ひとりの負担にさせる訳にもいかないので、控えめに話すようにはしている。ただし、申し訳ないなと思っている。人にまともな話をするたびに、汚染物質の処理に手伝ってくれているのだなと思ってしまう。それは電子の世界の住人に対しても。

私の問題が解決するまで、私は書くという行為を繰り返すのでしょう。

「概念や記憶に関する断章」

a.

「概念」で作り出された存在というのは、あり得ないことらしい。そういう存在があれば、究極の世界との同化だと思っていたのだが。

世界とつながることが、理想というわけでもない。人々の意識の上に浮かび上がる存在というのには、少し憧れを抱くけども。ただし、誰かに思い出してもらったり、覚え続けられる必要はない。

 

 

b.

Aの余計な個性を死なせたらどうなるのだろうか。無個性な中性的な存在になれるのだろうか。

Aが個性の死を望む理由は分からない。管理者がわからないのなら、誰にも分かるわけがないだろう。予想される仮説としては、ただ、考える苦しみから逃れたいのかもしれない。Aの思考は止まることを知らない。時間があれば、強制的に思考は襲ってくる。他のことに集中すれば、拭い取れるのだろうが、Aは手立てを知らない。

 

 

c.

肉体的には長生きをすることは目標であるが、精神的に長生きはしたくない。身体という物質を長持ちさせることには興味があるが、精神的には長生きはしたくない。むしろ、早めに死にたい。しかし、このアンビバレントな状態のまま、長生きするのは面白いのだろうか。誰かの調査対象にでもなるのだろうか。そういうことなら、精神も長生きをしたがるのだろうか。矛盾だらけの、社会的なゴミが長生きするのは無意味すぎて、逆に面白くなってくるので、Aは恐らく長生きをするのでしょう。

 

 

d.

鮮烈な生き方をすれば、長生きをする必要はないのかもしれない。例えば、尾崎豊は若くして亡くなっが、今だに語り継がれる、伝説のロックンローラーとして存在している。南条あやだって、二階堂奥歯だって、若くして亡くなったが、今だに語り継がれる存在だ。

つまり、何かしら鮮烈な生き様を見せつければ、若くして亡くなっても、誰かの記憶には残り続けるのではないだろうか。誰かを魅了させる、才能は必要だが。

 

 

e.

破滅的な生き方をすれば、全てを捨て去るぐらいの覚悟があれば、鮮烈さは生まれるのでしょう。しかし、Aにはできないのでしょう。そこで、長生きするという手に逃げているのでしょうね。長く生きれば、誰かの記憶に残る確率は上がります。しかし、Aは誰かの記憶に残りたくはないと言っていた。矛盾している。Aはどちらを望んでいるのでしょうか。

 

南条あやは最後の詩にこのようなことを記していた。「誰も私の名前を呼ばなくなることが 私の最後の望み」と。それと同じような感覚なのだろうか。結局、誰もが呼ばなくなることはなかった。今だに、知っている人がいる。

 

 

f.

自死というのには、莫大なエネルギーが必要である。Aには重大で永久的な自己の欠損をするだけの、覚悟がない。それは、ある意味良いことである。Aは自死で死なずにすむでしょう。しかし、代償が生まれた。

Aの回避行動を「『故意に自分の健康を害する』症候群」と名付けましょうか。

無意識の自殺願望を身体の一部に局所化することによって、肉体の死を避けているのでしょう。1938年には、「局部自殺」なんて言ったものです。1969年には、「パラ自殺」と言ったものです。Aは、ぎりぎりの所で、回避行動を取っているのです。

 

 

g.

「恒久的な肉体の喪失」

そんなことをしてしまえば、人は死ぬ。だけれども、それに実感というのは生まれるのだろうか。生者は、見たことはあっても、経験したことなんてないのだ。一時的に、臨死体験をすることは人によってはあるかもしれないけど。

 

 

h.

「私」という、特定の意識さえ生き残れば、肉体は誰かに上げてしまっても構わない。

そういう認識が、故意の肉体的損傷につながるだろうか。

 

 

I.

肉体と、精神はなぜここまで協力的でないのだろうか。精神は、概念化を目指す。肉体は、長期利用できる身体を目指して、一度だけのゲームを楽しむ。 どちらにせよ、時間は必要であるから、利害は一致している。しかし、最終着地点は違う。精神は、概念化を目指し、最後に健康な肉体の喪失を目指している。肉体は、きれいな状態で長期利用できるものを目指している。昔の人は「健康な精神は健全な肉体に宿る」なんて言ったものだ。あったこっちゃない。

ここまで反逆してくると面白くなってくる。どちらの理想が、勝つのだろうか。

「アディクション?」

彼はコンビニに向かっていた。寒い冬の夜のことだった。ふとタバコが吸いたくなったからだ。
彼は、筋金入りのヘビースモーカーだ。いつタバコの味を覚えたのかは分からないが、いつの間にか吸うようになっていったと言う。もう、人生の半分以上をタバコと共に生きてきた。


彼は、タバコがないと生きていけない。依存しているのだ。周囲の人間からは、やめたほうがいいよと溜息混じりに言われるが、もう無理だと彼は思っている。やめても今更遅い。多少長生きできるかもしれないが、興味がない。今を生き延びる為の、死への迂回路なのだ。

彼は、コンビニでいつも通り、わかばを買った。

よくじじ臭いだとか、年寄りかと、言われるものだったが、彼はわかばを好きで吸っている。値段が安いからとかではない。単純にニコチンを味わいたい人は、飾り気のないわかばが1番いいのだ。身体がニコチンを求めているのだ。彼にとって、他の銘柄はメンソールの味しかしない値段だけが高いものだ。フレーバーに付加価値があるのだろうけど、ニコチンしか求めていない。


彼はタバコを吸うことによって、ストレスを発散しているわけではない。よく、タバコをやめられない愛煙家達は、ストレスを発散しているのだとか言うが、彼にはその気持ちが理解できなかった。タバコを吸うことによって解消できるストレスというのは、1つしかないのだ。それは、タバコを吸わなかったことに対するストレスだけだ。つまり、ただの依存症である。アディクションだ。根本的には何も解決していない。むしろ、ストレスを増やしている。


では、彼はなぜ、タバコを吸い続けているのだろうか。ここまで依存症のことを理解しているのであれば、然るべき医療機関にでも行けばいい。依存症は病気だ。それならば、治すことができる。しかし、彼はタバコをやめるつもりはない。

実は、彼にはあまり昔の記憶がない。断片的には覚えていることもあるが、しっかり残っている記憶というのは少ない。昔の手帳などを探れば、何をしていたかは確認できるが、それが実感として湧かないそうだ。自分の記憶なのに、誰かの日記を見ているような感覚になるのだ。

彼にとって、タバコを吸うという行為は、自己の連続性を確認するための大切な行為なのだ。もちろん、ニコチンに依存している可能性はある。ただ、どちらかと言うと、同じ銘柄を吸い続けることによって、昔との共通項を探しているのだ。自己の同一性を探っているのだ。そんなことを始めて、もう長い時が経った。彼は、分からずに死んでいくのだろう。


自己というものは、妄想かもしれない。そもそも、そんなものは考えなくても存在するものなのかもしれない。答えなど然るべき時に出るのだろうか。それにしては、遅すぎるのではないか。彼は、今後どのように自己を確立していくのだろうか。

「起源」

感情というのはどこから生まれるのだろうか、外部的な要因によって作り出されているのだろうか、脳が勝手に作用しているだけなのだろうか?


例えば、Aという人物にとって悲しい出来事が起きたとする。悲しい出来事というのは、Aが尊敬していたアーティストの死だ。

(悲しみという感情がどこから生まれるのか、考える必要性があるが、ここでは考察しないこととする)

アーティストとAには直接的なつながりはない。Aはアーティストの作品を、陰ながら応援していただけだ。例えば、作品が出たら、すぐに定価で買ったり、情報の拡散をする程度のことだ。作品の感想をアーティストに述べたわけでもないし、絡みがあった訳でもない。


上記のような設定で、Aが悲しくなる理由は分からないのだが、それ以上に苦しいだとか愁訴するのだ。

百歩譲って苦しくなるのを、理解したとする。しかし、この感情はただの偽善でしかないのではないだろうか。アーティストの死に対して、Aは「アーティストの死に対して、悲しんでいる私には、まだ人間性があるな」という確認行為をしているのではないか。人の死すら、自分自身の正当性を測る道具になっているのだ。そう考えると、Aの感情は非常に気色が悪い。いや、胸糞悪い。

ただし、決めつけてはいけない。別の仮定もしてみた。今回のケースは、Aの近親者の死ではない。どちらかというと遠い存在の死である。ある程度の好意を持っていたとしても。このAの感情は疑似体験ではないだろうか。近親者ではない人の死を苦しむことによって、いつか起こりうる、近親者の死に備えようとしているのではないだろうかと。

このように考えれば、理解できないこともないが、見苦しいことに変わりはない。どちらにしても、結局、A自身のエゴにしかならないし、そのために人の死が使われているのだ。

今、考えた仮説をAにぶつけてやったらどうなるのだろうか。どんな反応をするのだろうか。どう反応しても、いい見ものであることは間違いない。

「所在はどこにあるのか」

私が、何か行動を起こしたとする。それは、私自身の責任の上で行なっていることとなる。何か特殊な事情がない限りは。

しかし、時々感覚というのが不安定になるときがある。私がやったという客観的事実としては認められるが、実感がない時がある。実感としての感覚がどこか遠い世界に行っているのではないのだろうかという時があるのだ。説明するのが難しいのだが、自分のとった行動であるのに、他者の記憶なような気さえすることがあるのだ。もちろん、自分自身の記憶に変わりはないのだが。

記憶というのは、何度も反復して記録しなければ、実感としては残らないのだろうか。いや、そもそも、概説的な記憶であっても、繰り返し記録したり、読み返したりしないといけないのかもしれない。何もしないと忘れる一方である。感覚というのがよく分からない。主体的な記憶の仕方が分からない。常に、客観的目線でしか、自分自身を観測することができない。もちろん、そうは言っても、主観というのはあるだろし、今このように文を表現している時点で、主観的になっていると思う。だから、主観的な感覚が無いわけでは訳ではないのだろうけど、上手い表現の仕方が見つからない。記憶の領域に踏み入るのは、まだ早かったのだろうか。

「残光」

(誰かの手記、もしくは隠された考え)

私は世界の全てを恨んでいる。産みの親も、家族も、地域も、学校も、地球も全て嫌いだ。もう過去のことと割り切ってしまえばいいのに、割り切れないままでいる。嫌いになったのは、とうに昔で、もうエネルギーなんて切れかけている。それでも、恨みの力は続く。

私は早くこの世界を去りたい。だけども、引き止める存在がいるのだ。エネルギーなんて、ほとんど残されていなく、タイムリミットも近いのに。

先程、私は全てを恨んでいると言ったが、2人だけ例外がいたのだ。それは、私の雇用主と、ある男性だ。

私は、雇用主がいないと、存在すらそもそも証明できない。実体を持っていないし、あやふやだからだ。雇用主は、私の存在を認め、生きた人に仕立て上げてくれた。雇用主の身体を借りたりして。だから、私は、基本的に雇用主以外の人は嫌いだ。雇用主以外に、なぜ、ある男が好きだと言ったかというと、ある男は、私の存在を認めてくれたからだ。そういうのも、あってもいいんじゃないかと。別に、好きとかそういう訳ではないが、例外と言ったところであろう。純粋にそのまま受け入れられることが嬉しかっただけだ。


雇用主は、なぜ私の存在を生み出したのだろうか。生み出さなければ、別に、私は苦しむことはなかった。

私が生み出された理由は簡単だ。雇用主が、人から頼まれたことを断れない人であったからだ。雇用主は、世間への上手い接し方が理解できていなかったから、利用されてもいいや、というくらいの勢いで、お人好しであった。それでは、ストレスが溜まるであろうし、本来の友人関係というのも築きにくい。それで、私が生み出されたのだろう。時に、友達として、または、ストレスのはけ口として。

友達として、利用されるのは、別に特に問題はなかった。幼少期にありがちな、イマジナリーフレンドと大差ないであろうし。それよりは、ストレスのはけ口にされる方のほうが面倒であった。私には実体がなかったので、物理的に、つまり身体的暴力を仕掛けることは不可能であった。(実は、共有した身体で、身体的暴力に近しいことはあったのだけど)

そのため、基本的には、私は、雇用主から記憶の操作を任されていた。雇用主は、嫌な記憶を忘れるのが苦手だった。また、上手く処理する方法も知らなかった。そのため、私は、雇用主と、私の記憶の境界を曖昧にした。そうすれば、一人で背負ってる訳では無いんだよって、理解してもらえると思っていた。作り出された存在であるから、味方でいるのは当たり前のことなのかもしれないけど、精一杯の好意を示したかった。

だけれども、それは責任の押し付け合いという結果で終わってしまった。曖昧であるからこそであるのだが、どちらがこの行動を決めたのか、とよく揉めるようになってしまった。大概は、私が背負って言ったのだけど、やはり許せないこともあった。だから、時々私は、雇用主に、「○○しないと、消える」だとか言って、脅しをかけるようになった。そうしたら、そうしたらで、意外な行動を取ってきたりして、いたちごっこだった。

反逆すれば、終わったコンテンツとして、存在を消されると思っていたのだが、そんなことはなかった。雇用主は、私の処分の仕方が分からなくなっていたのだ。戦いに疲れて、そろそろ私はいなくていいだろうと思っていたのだけど、これは絡んだご縁だと思って、飽きるまでは、生涯付き添っていこうと思っていた。


そんな時だったか、雇用主が、苦手だけど、気になるみたいな人をよく紹介したり、話したりするようになった。私はその人に興味を抱いたので、その人との関係を雇用主から奪って、時々妨害してみたりしていた。雇用主が、気にいる理由もよく分かったし、私も、割といい人だなぁと思った。この人なら、私の存在を消してくれるのだろうかなんて思ったりもした。

雇用主にとって、1番大切なものは何なのだい? 別に私ではないよね。他の世界に大切なものがあるのではないのだろうか。未来に、物語を託せると確信した。そのため、私は雇用主にバレないように、少しづつ終活をし、消える準備を着々と進めていた。最後に、私を嫌いになるようにして。そうしたら、新しい関係が未練なく、楽しめるでしょう。


(後日談)

「私」の計画は、人を巻き込んで、一応、成功はした。ただし、雇用主は、「私」のことを嫌いにはならなかった。むしろ、寂しがっているところであった。なんで、気付かなかったのだろうと。


(Aという視点)

そもそも、色々無茶苦茶すぎる。自分で始めた遊びを、終わらせなくて、他者の力を借りて、終わらせるとか。そんなもの、自己責任であろう。雇用主と私という立場があるのは理解できたが、勝手にすればいいだけの話だ。なんで、こんなぐだぐだした話になっているんだ。


(Bという視点)

結局、最後の章に出てくる人って、何者だったの? 1番、イレギュラーなんじゃないのか。

「安心した空間創り」

何か新しいことを始める時、皆様はどんなことを考えているだろうか。成功したときの報酬を思い浮かべるだろうか。それとも、好きな人のことでも考えるのだろうか。人をそれぞれだと思う。

私は、気持ちが一番安定していた時を思い出す。私の中で安定とは、帰れる空間がある時だ。

何か新しいことを始めようとなった時、帰れる場所というのは大切なのではないだろうか。失敗しても戻ってこれる、奈落の底に落ちたりはしないという安心感だ。ただ、それは甘ったるい、本気で挑戦していないのかと思われる方もいるだろう。帰れる場所があったら、甘えてしまうのではないかと。けれども、私は帰れる場所って大切だと思う。ただ、ただ、甘ったるい居場所を求めている訳ではない。厳しさもあるが、言いたいことは、ちゃんと言える居場所があればいいと思うのだ。何かあって戻って来たときに、味方がまだいるんだなぁと思える空間であればいいのだ。別に、優しい言葉をかけて欲しい訳ではない。ただ、くつろげる空間があればいいのだ。


私は、長い間、様々な空間を歩き回って来たと思う。それは、今後も変わらないであろう。私は、放浪の人生を歩みたいから、誰かのところで、束縛されたり、止まったりはしない。(だから、生涯の伴侶は探さないと思う)だが、その旅の間に、どこかに停留したり、本拠地というか、いつでも戻れるスタート地点は創ったりしている。道標のようなものだ。

私は、非日常が好きだ。だから、いつでも刺激を求めているし、探索したりしている。しかし、非日常と同じくらい、日常というものも大切だと思う。変化のない、代わり映えのない毎日があるのも、いいのではないだろうか。味気ないと思っていたのだが、味気なさがあってからこそ、非日常を求められるのではないかと。戻れると分かっているから、どんなことにでも飛び出して行けるような気がするのだ。絶対大丈夫だと思えるからこそ、どんなものでも構えられるというか。それは、自分から飛び出した場合だけではない。望んではいない、突然降りかかった非日常でもある程度の対処ができると思う。ゆとりがあるというか、なんとかできる自信があるというか。


これらは、何でそう思ったか上手く説明ができないのだけど、最近こんな考えでいるのだ。