節分

季節の節目、立春という日で、縁起物を食べる日、ということらしいが、最近は商戦のために利用されている日というイメージしかない。スーパーに行けば、節分とバレンタインのPOPや特設コーナーに目が行く。日付がすぎれば、半額コーナー行く商品。まあ、バレンタインの商品はラベルを貼り替えれば、ホワイトデーにも使いまわしできるけど。でも、節分の商品は、日付が過ぎたら、半額コーナーに行くしかない。目立っているのはほんのひとときだけ。行事は人の都合で遊ばれている。
最近は、コンビニの自爆営業というのがあるらしい。店舗ごとに商品を売る数が決まっていて、売れなかったら従業員が自費で買い取ると。節分もそんなイベントだ。恵方巻きを決められた数、売らなきゃいけないと。恵方巻なんて、半分以上受注生産にして、少し店舗に並べればいいだけの話なのに。大体、雰囲気に流されて買う人間に、恵方巻を食べる意味なんて分かっているのだろうか。そういう日だから食べる、そんなのに意味はあるのか。


意味も分からず、恵方巻を食べ、豆まきをする。「鬼はー外、福はー内」なんていいながら。地域によっては落花生を撒くところもあるらしい。ただ、なんとなく「鬼はー外」なんて、言われている鬼はかわいそうだ。誰もが、心の中に鬼を飼っているというのに。だから、私は節分の豆まきの際、このように言う。「福はー内、鬼もー内」と。

苦しみと美しさ

リストカットなどに代表される自傷行為はなぜタブーとされているのだろうか。例えば、タトゥーや、スキンリムーバルなどは、皮膚を傷つけるという点では、自傷行為と同じである。しかし、それは場合によっては美しさとして認められることがある。それはどうして認められるのだろうか。自傷行為と別の部分的に似た行為を比較しながら考えて行くこととする。

 

① 自傷行為とタトゥーや入れ墨
自傷行為とタトゥーや入れ墨は、皮膚を傷つけるという点では何ら変わりのない行為だと考えられる。しかし、美しさの世界では明確に分けられる。ただし、両者の境界線は曖昧であるともいえる。確かに、美しさを求めるために、タトゥーや入れ墨をする人もいるが、曖昧なまま行っている人もいるからだ。
日本においては、どちらもタブーとされることが多い。が、スキンリムーバルは、美しさの1つの領域として認められることがある。世間一般の認識としてはあまりよくないのかもしれないが、愛好家がいることは事実である。そのため、曖昧なまま進んでしまう人もいるのではないだろうか。また、アートという形を取ることによって、安全な方法で、皮膚を傷つける確率が上がる。そのような要因も曖昧さの原因ではないだろうか。

② 自傷行為と過度なスポーツ、筋トレ
自傷行為と、過度なスポーツ、筋トレは自分の健康を害すという点では同じではないだろうか。スポーツも行き過ぎれば、疲労骨折や肉離れなど自分の健康を害すことになる。また、筋トレによる食事制限は食の楽しみを奪うことになるのではないだろうか。しかし、自傷行為と過度なスポーツ、筋トレは明確に区別される。それは、目標があるからだ。筋トレやスポーツには自分の理想や美しさにつながる。実際、筋トレ愛好家によるコンテストは各地で開かれいるわけだし、各種のスポーツ大会は世界中で開催されている。


上記の点によって、自傷行為とその他の行為は明確に分けられる。しかし、私が関連付けた理由は「脳内物質の放出」の仮説のためだ。筋トレをしようが、スキンリムーバルをしようが、自傷行為をしようが脳内物質が放出されるのではないだろうか。苦痛を味わうことによって、脳内物質が放出される。その他の行為より、自傷行為がタブーとされるのは思い立ったらすぐにできる点と苦痛の度合いが低いからではないだろうか。結局、脳内物質の点から見ればどの行為も同じなのだが、社会的容認度で言えば違うのであろう。社会は楽して脳内物質による快楽を制限しているのではないだろうか。本筋とずれるが、麻薬の乱用を多くの国が制限しているのも同じ理屈によるものだろう。


自傷行為は脳内物質をいとも容易く得るといった点では、非常に合理的な行為ではないだろうか。それによってできた傷跡が、多くの人にとってグロテスクに映るのは、楽をしすぎている点を非難しているからかもしれない。自傷行為をする心理というのは追い詰められており、決して楽をしてやろうという意志はないのだが。その辺ズレが当事者と非当事者の意識を分けてしまうのかもしれない。

「受容」

いつか、いつの日か私のことを丸ごと受け入れてくれる人が現れるかもしれない。そんなことを昔は考えていたものだが、そんな人など存在しない。

では、私自身は、誰かを丸ごとに受け入れたことがあっただろうか。許容と理解なら、あり得るが、受け入れたことはない。
このようなことから、人から丸ごと受け入れられることなんて、不可能であるのだ。

それでも、かつては存在していた。それは、羊水である。生まれる前の、独立していない存在であれば、丸ごと受け入れられているのではないだろうか。もう、戻ることなどできもしないけど。

そもそも、人に受け入れられるというのはそんなに必要であるのだろうか。別に、人から受け入れられなかったとしても、それによって、肉体的な死を迎えることなどないのだ。人から受け入れられるというのは、人にとって、付加要素である。
確かに、誰かから受け入れられることによって、人の精神は安定する。居場所ができたような気もするし、なんだか、なんでもできるような気がしてくるのだ。ただし、受け入れられると、丸ごと受け入れられるは別物である。相手に、多少興味を持ってもらって、僅かな理解だけで、安心した空間は作り出される。そのため、別に丸ごと受け入れられる必要などないのだ。別に、安心した空間だって無理して作る必要もない。必要最低限の他者との交流ができれば、社会的な死は避けられる。

丸ごと受け入れられるなんて、幻想でしかない。だからと言って、想像しないことはない。現れる訳ないけど、現れたらいいなって。その辺にもまだすきがあるというのかな。

「領域a」

ここ数日、頭が割れるように痛い。「割れる」という表現は少々、オーバーであるが、彼女にとって、数日に渡っての頭痛というのは経験したことがなかった。そのため、少々オーバーな表現をした。彼女の頭痛の原因など分かりきっているのに。


あの日のままで変わらない我、


残された人の時間というのは止まってしまう。彼女もそうであった。頭痛という体調の変化は、時間が止まったように感じるそうだ。永久のごとく、押し黙った時間のようだと。そんなことはありえないし、痛み止めを飲めば、一時的に痛さは収まる。だけれども、何かを断ち切ってしまったような気がしてあまり気が乗らない。そのため、彼女は余程痛くない限りは、痛み止めを飲まない。

 

作り出された存在というのがあり得ることだとしたら。そんな空想をしたことがある。作り出されたということは、誰かにとって、都合の良い存在でなければいけない。しかし、都合の良すぎる存在というのは、不自然であるし、他者から見れば、異形の姿でしかないのだ。彼女の作り出された存在というのは、無関係な人の手によって壊された。

 

話は、戻るが、彼女が頭の痛い理由とは何か。アディクションの後遺症ままならない。空いてしまった穴を埋めるために、アディクション的行動を取るのだ。そういうのは、とある疾患の感覚に似ているらしい。そんなことをしても、何も変わらないことは分かっているのだけど。

 

加速する世界の中で、あの人たちはどう暮らして行くのだろうか。彼女は、ふと思った。手放してしまったが、情報や世間の移り変わりというのはあまりにも早い、ぐだぐだしていると取り残されてしまう。はっ、彼女もか。彼女自身も、そう思った。だからと言って、対処する術などないけど。

 

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「書くという行為」

学生にとって、ものを書くという行為は嫌な思い出と結びつくことが多いらしい。
例えば、読書感想文や、人権作文。夏休みの宿題として課されることも多いが、苦労した人も多いのではないだろうか。私も、小学生の時は、長文を書くのが苦手だったので、苦労した。しかも、課題本を、エッセイか評論で決めることが多かった。そのため、あらすじを書いて行数を稼ぐこともできず、大変苦痛な作業であった。
また、中学生や高校生になれば、反省文を書いたことがある人もいるだろう。書いたことはないが、人の反省文の手伝いをしたことはある。それは、400字詰め原稿用紙を1枚埋めるだけの作業だったのたが、それは中々大変だった。とりあえず、嘘を並べて埋めた覚えがある。あの作業は苦痛だ。
このようなことから、学生は課題以外で、長文を書くというのは好ましく行為であることが多い。

そのため、何か大量の情報を伝えたい場合、主に口を使って伝達するそうだ。(例外的に口を使って気恥ずかしい時は、文でも伝えることがあるらしい。例えば、何らかしらの暴露とか)

 口で情報を伝達するとなると、伝えた言葉以上の情報が相手に伝わることとなる。例えば、表情や、イントネーション、声の大きさなのだ。これらの要素を複合して、ものを伝えるこことなる。

文字に起こすのが面倒であったり、嫌な記憶に結びつきやすいとしても、口で情報を伝えるのは怖くはないのだろうか。

口で情報を伝えると、書く手間は省けるが、発信者が意図していない伝わり方をすることがある。それは、言葉以外の要素によって。もちろん、文字情報であっても、同じことは言える。それでも、文字情報の場合、相手に伝達する前に、読み返すことは可能だし、わかりにくい表現を避けるように気をつければいいだけの話だ。

しかし、口での情報伝達は違う。会議などで、事前に伝達する内容を考えられることもある。が、多くの場合は、考える時間など数秒しか用意されていないのだ。そういうのは、かなり怖いと思う。取り返しの付かない事態になってしまうのではないかと考えてしまう。

過去にこんな失敗をしたことがあった。

とある会議のことであった。その会議は自分自身のことについて語るというものであった。そのため、私は自分に関わりのある、青年期の若者の行動パターンの1つについて話をした。私は、とある行動パターンに当てはまった人であったし、それについての知識も自信があった。そのため、得意になって、長い尺を使い、その話をした。場にいた、年配の方の様子を見ると、受けは良かったし、満足した気分で会議を終えた。

しかし、ここで私は場にいた若者に対しての配慮を忘れていたのだ。語った内容は、かなり影響力があるものであった。特に、心理的に瀬戸際にいる人にとっては。後から聞いた話によると、私の話を聞いたことによって、心に不調をきたしてしまった人がいたそうだ。受け手自身の元々の問題もあったが、私が要因を引き出してしまったのであった。

 

それ以来、人前で真面目な話をするのがめっきりと怖くなってしまった。私の話を聞いても、影響を受けないだろう相手の前でしか、人前で真面目な話はしない。その他の人の前では道化を演じることが多くなった。道化といっても、やり過ぎない程度に、周囲に合わせるということだが。

私の話に影響を受けないだろう人というのは、以前は身の回りに複数人いた。最近は減少傾向にあるのだが。一人ひとりの負担にさせる訳にもいかないので、控えめに話すようにはしている。ただし、申し訳ないなと思っている。人にまともな話をするたびに、汚染物質の処理に手伝ってくれているのだなと思ってしまう。それは電子の世界の住人に対しても。

私の問題が解決するまで、私は書くという行為を繰り返すのでしょう。

「概念や記憶に関する断章」

a.

「概念」で作り出された存在というのは、あり得ないことらしい。そういう存在があれば、究極の世界との同化だと思っていたのだが。

世界とつながることが、理想というわけでもない。人々の意識の上に浮かび上がる存在というのには、少し憧れを抱くけども。ただし、誰かに思い出してもらったり、覚え続けられる必要はない。

 

 

b.

Aの余計な個性を死なせたらどうなるのだろうか。無個性な中性的な存在になれるのだろうか。

Aが個性の死を望む理由は分からない。管理者がわからないのなら、誰にも分かるわけがないだろう。予想される仮説としては、ただ、考える苦しみから逃れたいのかもしれない。Aの思考は止まることを知らない。時間があれば、強制的に思考は襲ってくる。他のことに集中すれば、拭い取れるのだろうが、Aは手立てを知らない。

 

 

c.

肉体的には長生きをすることは目標であるが、精神的に長生きはしたくない。身体という物質を長持ちさせることには興味があるが、精神的には長生きはしたくない。むしろ、早めに死にたい。しかし、このアンビバレントな状態のまま、長生きするのは面白いのだろうか。誰かの調査対象にでもなるのだろうか。そういうことなら、精神も長生きをしたがるのだろうか。矛盾だらけの、社会的なゴミが長生きするのは無意味すぎて、逆に面白くなってくるので、Aは恐らく長生きをするのでしょう。

 

 

d.

鮮烈な生き方をすれば、長生きをする必要はないのかもしれない。例えば、尾崎豊は若くして亡くなっが、今だに語り継がれる、伝説のロックンローラーとして存在している。南条あやだって、二階堂奥歯だって、若くして亡くなったが、今だに語り継がれる存在だ。

つまり、何かしら鮮烈な生き様を見せつければ、若くして亡くなっても、誰かの記憶には残り続けるのではないだろうか。誰かを魅了させる、才能は必要だが。

 

 

e.

破滅的な生き方をすれば、全てを捨て去るぐらいの覚悟があれば、鮮烈さは生まれるのでしょう。しかし、Aにはできないのでしょう。そこで、長生きするという手に逃げているのでしょうね。長く生きれば、誰かの記憶に残る確率は上がります。しかし、Aは誰かの記憶に残りたくはないと言っていた。矛盾している。Aはどちらを望んでいるのでしょうか。

 

南条あやは最後の詩にこのようなことを記していた。「誰も私の名前を呼ばなくなることが 私の最後の望み」と。それと同じような感覚なのだろうか。結局、誰もが呼ばなくなることはなかった。今だに、知っている人がいる。

 

 

f.

自死というのには、莫大なエネルギーが必要である。Aには重大で永久的な自己の欠損をするだけの、覚悟がない。それは、ある意味良いことである。Aは自死で死なずにすむでしょう。しかし、代償が生まれた。

Aの回避行動を「『故意に自分の健康を害する』症候群」と名付けましょうか。

無意識の自殺願望を身体の一部に局所化することによって、肉体の死を避けているのでしょう。1938年には、「局部自殺」なんて言ったものです。1969年には、「パラ自殺」と言ったものです。Aは、ぎりぎりの所で、回避行動を取っているのです。

 

 

g.

「恒久的な肉体の喪失」

そんなことをしてしまえば、人は死ぬ。だけれども、それに実感というのは生まれるのだろうか。生者は、見たことはあっても、経験したことなんてないのだ。一時的に、臨死体験をすることは人によってはあるかもしれないけど。

 

 

h.

「私」という、特定の意識さえ生き残れば、肉体は誰かに上げてしまっても構わない。

そういう認識が、故意の肉体的損傷につながるだろうか。

 

 

I.

肉体と、精神はなぜここまで協力的でないのだろうか。精神は、概念化を目指す。肉体は、長期利用できる身体を目指して、一度だけのゲームを楽しむ。 どちらにせよ、時間は必要であるから、利害は一致している。しかし、最終着地点は違う。精神は、概念化を目指し、最後に健康な肉体の喪失を目指している。肉体は、きれいな状態で長期利用できるものを目指している。昔の人は「健康な精神は健全な肉体に宿る」なんて言ったものだ。あったこっちゃない。

ここまで反逆してくると面白くなってくる。どちらの理想が、勝つのだろうか。

「アディクション?」

彼はコンビニに向かっていた。寒い冬の夜のことだった。ふとタバコが吸いたくなったからだ。
彼は、筋金入りのヘビースモーカーだ。いつタバコの味を覚えたのかは分からないが、いつの間にか吸うようになっていったと言う。もう、人生の半分以上をタバコと共に生きてきた。


彼は、タバコがないと生きていけない。依存しているのだ。周囲の人間からは、やめたほうがいいよと溜息混じりに言われるが、もう無理だと彼は思っている。やめても今更遅い。多少長生きできるかもしれないが、興味がない。今を生き延びる為の、死への迂回路なのだ。

彼は、コンビニでいつも通り、わかばを買った。

よくじじ臭いだとか、年寄りかと、言われるものだったが、彼はわかばを好きで吸っている。値段が安いからとかではない。単純にニコチンを味わいたい人は、飾り気のないわかばが1番いいのだ。身体がニコチンを求めているのだ。彼にとって、他の銘柄はメンソールの味しかしない値段だけが高いものだ。フレーバーに付加価値があるのだろうけど、ニコチンしか求めていない。


彼はタバコを吸うことによって、ストレスを発散しているわけではない。よく、タバコをやめられない愛煙家達は、ストレスを発散しているのだとか言うが、彼にはその気持ちが理解できなかった。タバコを吸うことによって解消できるストレスというのは、1つしかないのだ。それは、タバコを吸わなかったことに対するストレスだけだ。つまり、ただの依存症である。アディクションだ。根本的には何も解決していない。むしろ、ストレスを増やしている。


では、彼はなぜ、タバコを吸い続けているのだろうか。ここまで依存症のことを理解しているのであれば、然るべき医療機関にでも行けばいい。依存症は病気だ。それならば、治すことができる。しかし、彼はタバコをやめるつもりはない。

実は、彼にはあまり昔の記憶がない。断片的には覚えていることもあるが、しっかり残っている記憶というのは少ない。昔の手帳などを探れば、何をしていたかは確認できるが、それが実感として湧かないそうだ。自分の記憶なのに、誰かの日記を見ているような感覚になるのだ。

彼にとって、タバコを吸うという行為は、自己の連続性を確認するための大切な行為なのだ。もちろん、ニコチンに依存している可能性はある。ただ、どちらかと言うと、同じ銘柄を吸い続けることによって、昔との共通項を探しているのだ。自己の同一性を探っているのだ。そんなことを始めて、もう長い時が経った。彼は、分からずに死んでいくのだろう。


自己というものは、妄想かもしれない。そもそも、そんなものは考えなくても存在するものなのかもしれない。答えなど然るべき時に出るのだろうか。それにしては、遅すぎるのではないか。彼は、今後どのように自己を確立していくのだろうか。

「起源」

感情というのはどこから生まれるのだろうか、外部的な要因によって作り出されているのだろうか、脳が勝手に作用しているだけなのだろうか?


例えば、Aという人物にとって悲しい出来事が起きたとする。悲しい出来事というのは、Aが尊敬していたアーティストの死だ。

(悲しみという感情がどこから生まれるのか、考える必要性があるが、ここでは考察しないこととする)

アーティストとAには直接的なつながりはない。Aはアーティストの作品を、陰ながら応援していただけだ。例えば、作品が出たら、すぐに定価で買ったり、情報の拡散をする程度のことだ。作品の感想をアーティストに述べたわけでもないし、絡みがあった訳でもない。


上記のような設定で、Aが悲しくなる理由は分からないのだが、それ以上に苦しいだとか愁訴するのだ。

百歩譲って苦しくなるのを、理解したとする。しかし、この感情はただの偽善でしかないのではないだろうか。アーティストの死に対して、Aは「アーティストの死に対して、悲しんでいる私には、まだ人間性があるな」という確認行為をしているのではないか。人の死すら、自分自身の正当性を測る道具になっているのだ。そう考えると、Aの感情は非常に気色が悪い。いや、胸糞悪い。

ただし、決めつけてはいけない。別の仮定もしてみた。今回のケースは、Aの近親者の死ではない。どちらかというと遠い存在の死である。ある程度の好意を持っていたとしても。このAの感情は疑似体験ではないだろうか。近親者ではない人の死を苦しむことによって、いつか起こりうる、近親者の死に備えようとしているのではないだろうかと。

このように考えれば、理解できないこともないが、見苦しいことに変わりはない。どちらにしても、結局、A自身のエゴにしかならないし、そのために人の死が使われているのだ。

今、考えた仮説をAにぶつけてやったらどうなるのだろうか。どんな反応をするのだろうか。どう反応しても、いい見ものであることは間違いない。