領域外伝

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 ー人にとって書く行為というのは精神の安定のためにあるのかもしれない。

そんなことは昔から言われていて、特に目新しいことではない。心理学的にもちゃんと立証されている。ストレスとの向き合い方の話にあったはずだ。強いストレスを感じた時は、考えていることを整理するためにも書いた方がよいと。

 ただ、書けるという状態は急性期に比べたら、随分と落ち着いた状況になっている時である。大変な時に書くとか、表現するとかそういうことはできない。生きるのも険しいかもしれない。生きることが必ずしも正解ではないが。

 世の中にはどう頑張っても助からない人が存在する。海外の人でとある病気(精神的なもの)を患った人がいたのだが、その人はどうも生きるのに向いていなかっただろうという印象を与えた。結局、20だったかそれくらいの時に亡くなってしまう。書いたら生き延びることができるかもしれないが、その人は書いたにも関わらず生き延びることができなかった。その病気は直接的には死なないが、間接的な要因による致死率が案外高いとも言われてはいたが。

 死んでもよい人間が存在するとかしないとかそういう議論はいくらでも行われている。インターネットの箱庭でも繰り返し行われてきたであろう。

 とあるネットワークから外れてしまって、また戻りたいと願わないのであれば、それはイコール死であろうと考えている。そのとあるネットワークというのはセーフティネットではない。人によって変わるし、そもそも存在しない人もいる。別に資格とかそんなものは存在しないはずだけど、人がそれにこだわれば発生してしまう。それは何においても共通することであるが。こだわれば新たな基準というものは発生する。

 

 

 前置きはこれくらいにして、今回書きたいことを進めていくことにしよう。 といっても今回書きたいことはつまるところ何なのかなどと問い合わせがあったとしてもそれに答えることはできない。さっきの前書きは補足でしかない。

 

*主語が著しく省かれ代名詞が多く出現します。理解できない箇所があっても気にせず進めてください。特に意味はないです。(そしてこの注意書きにも意味がない)

 

 とある人は、狭間に住んでいる。何の狭間か? 人々の意識下ではないところというのが1番適当である。無意識の世界、無意識の海に住んでいると主張する。そんなことはとある人以外にとってどうでもよい事実なので、無視されていく。

  とある人はいつも通りに領海を見回る。ウイルスバスターのように領海を見てまわり、もし侵入者がいたら制裁を与える。そんなことを繰り返す日々であった。とある人は侵入者に対してはかなり厳しい方である。たまたま道を間違えてしまった人にも処分の手は緩まない。何がなんでも侵入者には容赦がない。基本的には侵入者は殺される。

 その場所には時間という概念が存在するといえば存在するが、それは各自の采配に任されている。そのため、1日が必ずしも24時間とは限らないし、1週間が7日とも限らない。統一はしていない。一応、一般的に知られている、1日は24時間で、1週間は7日というのが知らされてはいるが、それを守るものはほとんどいない。

  とある人はいつも通り、領海を見回る。そこに朝も昼も夜も存在しない。無限に時が流れるだけだ。同じことを延々と繰り返している。

 その場所に他者は存在する。しかし、それは望めばということである。望まなければ他者は存在しないし、望めば他者は自然に現れる。そんな自由に扱えるような空間であった。その場所における他者というのは、蝋人形のようなものであった。意思を持たせることは不可能とはいえないものの、不可能に近い行為であった。意思を持った他者はすぐに壊れてしまう。無機の蝋人形は、いつまでも存在し、長持ちした。

 とある人はいつも通り、領海を見回る。たまに湧いてくる侵入者を殺し、その死体を食べて生き延びていた。その死体は生物の死体(肉)ではなく概念であった。概念を食べることは不可能のはずであるのに、なぜかその場所では可能になっていた。

 その場所に存在しないものはなかった。どこにでも繋がることができ、何でも取り出すことができた。限界というのは塗り替えられるもので、決めつけてしまえば生まれ、考えなければ生まれない。何でも存在することができた。

 

 平凡な語り口に飽きてきたところで。誰かは何か挑んでいる。何に挑んでいるのか? 見えざる限界にだ。全てのことは望まれているのではないかという。不幸な自己であってもそれは本人が望んで不幸の状態になり続けているのではないかと言う。不幸な状態というのが中毒になっていて、不幸というのは中毒症状の一種だとも言う。それについての言説はしない。どこかに壁打ちされた言語でしかないからだ。

 

 

 今日はいい夜ですね。

 

鈴木の本棚part2

お知らせメールの影響もあり、1年前のブログを読み返した。私の本棚について説明されている文書だった。

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1年経ち、私の本棚の様子はかなり変わったような気がする。まず、中古で購入したり本が減り、新品購入した本が増えた。また、SFに手を出すようになった。本棚には、古典や、有名作家の作品が並んでいる。まだ読めていない本もあるがぼちぼちと読んでいきたいと思っている。

 

短歌に興味を持ったという話が記載されていた。影響を受けたのはその頃だったのだろうか。今ではよく覚えていない。はてなブログを漁ってみた。なぜかもっと昔に短歌とも呼べないが、短歌の形をとっている作品を発見した。

 

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長く興味を持っていたことは、理解できたが、それを実際の行動に移せたのはつい最近のことである。いつの間にか、私は受け手だけではなく作り手にもなっていた。歌会に参加するようになっていた。1年、そんなに長い期間ではないと思うのだけど、意外にも変化していた。

 

ついでみたいになってしまうが、今の状況でも書いてみようかなと思ってしまう。何の気なしに、書いた記事が1年経って、自分が過去に考えていたことが知れるとしたらそれはとても面白いことだと思う。

 

実をいうと、私は一時期物語を軽視していた。医学論文が世の中で一番良い読み物だと思っていたことがあった。(これがのちにSFにはまっていく要因です)物語なんて読まなくても高度なことが全て記されていると思い込んでいた。

その時期に書いた原稿は、全て意図的に物語にしないようにしていた。しかし、満足いくものは作れなかった。当たり前である。物語を軽視するひとが作品を作れるわけがない。なぜ、そんな思い込みをしていたか。明確な外部的な基準がほしかっただけなのだ。ただ、それだけのために読み漁っていた。

 

よくわからない感じになってきたのでここら辺で。

「言葉を吐き出す」

弟の通っている塾では講師に対して、「死ね」という生徒がいるらしい。発言者は、4年前の私の世代と比較して「生徒の質が変わったのか?」なんて言っている。

 これは質の問題だけではないと思う。いつの時代にも、なぜか人に「死ね」と面と向かって言える人間は存在する。それが、どこで発言し、発散されるのか、という問題だと思う。

 このケースの場合、生徒は塾講師に向かい、「死ね」と発言した。ある意味では、かなり発言者は考えられているのではないだろうか。一般的な塾というのは、金を払うことによって勉強を教えてもらう場所だ。嫌なら辞めればいいだけのところだ。しかし、捻くれた考え方をすれば、金を払っているということは、生徒はお客である。客であれば何をしてもいいとは言えないが、多少わがままとか、嫌味を言っても言い返してこないだろうという可能性は高い。だって、講師からしてみたら顧客が1人減るということは、大変困ることである。塾なんていくらでもあるが、顧客となりうる対象は減り続けているのだから。

 まあ、それは相当売上の悪い塾か、人としてのプライドを捨てて、金儲けの為に頑張っている企業の可能性が高い。高級塾と言われるようなところは、そもそも入塾する為に、テストを実施するところもあるし、入塾するのに許可がいるような場所もあるという。そのような塾で、このケースのような発言をした場合、まあ発言者の生徒は、塾を辞めさせられるであろう。

発言者は、鬱憤ばらしの為に塾講師に「死ね」と言ったのだろうか? そのように仮定するのなら、「水は低い方に流れる」というのがよく当てはまることだなと思う。発言者にとって、塾講師というのは、日常的には付き合いのない人間である。そして、嫌になったら適当なことを言って辞めればいい。そのようなところにしかストレスを発散できないのは、少し悲しいとかそんなことを考えてしまうけど、発言者にとっては、その場所しかないのだろうか。

 ストレスを発散するのって、現代人においては、大変なことなのかもしれない。(過去の方が楽だったとか、そんなことを言いたい訳ではないのだけど、うまく言い表す言葉が見つからない)

分からないことは多いのだけど、場所の選択肢が減ってきているのかな、と思ったり。それはリアルな空間においてなのだけど。インターネットの海は莫大で、どこまでも果てのないような気がするのだけど、リアルな空間ってすごく狭いような気がする。世界は広いとか、いう人いるけど、それは冒険者が言うことだ。冒険者ではない人は、小さな箱庭にこもっていなければいけないような気がするのだ。(いや、これは思い込み)

一人の人間が所属できるコミュニティって、そんなに多くはない。限られた空間の中で何ができるか? という問いが発生するのだけど、それはよくわからない。

領域b

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領域aの件から、随分と時は流れた。彼女は現世に存在はしていた。それが嬉しいことなのか、悲しいことなのかは分からない。誰も評価することはできないのだ。それは、誰も興味を示さない事案であるということを暗に示してる。

便宜上、この空間には、領域bとつけた。それは、以前の記事にnext→領域bとかかれていたからであり、実際に彼女が領域を移動できたのかは分からない。観測のしようがないというのが、分からない理由の1つである。また、同一性を保っていないので、移動は必然的なのか、人為的なのかという見極めが難しいのも、理由の1つである。

序論はこれくらいにして、しばらくの間に彼女は何が変わったのか?
とある方の話によると、改悪されているらしい。しかし、それを止めることはできない。一難去って、また一難ということか。明るいニュースを届けたいところではあるのだけど、現実はそうも簡単にはいかない。それが、色濃く出た1件ということなのだろう。

彼女は今後どうなっていくのか? これは中間レポートみたいなものらしい。といっても、書き手の私がそれを理解することはできない。私はただの、物語の紡ぎ手でしかなく、詳しいことは何も知らない。ただ、代理的に文字を紡いでいくことしかできない。

彼女は泣いていた。理由もなく、ただひたすらに泣いていた。泣き止むことはいつのことになるやら、といった感じであった。誰かが、なんで泣いてるの? と聞いたところ、悲しいから泣いているのと答えた。じゃあなんで悲しいのかい、と聞いたところ、それは分からないと。
理由もなく悲しいことがあるということを、質問者は理解できなかった。彼女と質問者は、永久に交わることはないだろう。

こんな空間に意味などあるのですか? どこにも届かない声を、彼女は投げる。言葉は鳥になって、飛んでいくのですよ、なんて誰かに吹き込まれたせいで、意味もない問いかけを投げ続ける。


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節分

季節の節目、立春という日で、縁起物を食べる日、ということらしいが、最近は商戦のために利用されている日というイメージしかない。スーパーに行けば、節分とバレンタインのPOPや特設コーナーに目が行く。日付がすぎれば、半額コーナー行く商品。まあ、バレンタインの商品はラベルを貼り替えれば、ホワイトデーにも使いまわしできるけど。でも、節分の商品は、日付が過ぎたら、半額コーナーに行くしかない。目立っているのはほんのひとときだけ。行事は人の都合で遊ばれている。
最近は、コンビニの自爆営業というのがあるらしい。店舗ごとに商品を売る数が決まっていて、売れなかったら従業員が自費で買い取ると。節分もそんなイベントだ。恵方巻きを決められた数、売らなきゃいけないと。恵方巻なんて、半分以上受注生産にして、少し店舗に並べればいいだけの話なのに。大体、雰囲気に流されて買う人間に、恵方巻を食べる意味なんて分かっているのだろうか。そういう日だから食べる、そんなのに意味はあるのか。


意味も分からず、恵方巻を食べ、豆まきをする。「鬼はー外、福はー内」なんていいながら。地域によっては落花生を撒くところもあるらしい。ただ、なんとなく「鬼はー外」なんて、言われている鬼はかわいそうだ。誰もが、心の中に鬼を飼っているというのに。だから、私は節分の豆まきの際、このように言う。「福はー内、鬼もー内」と。

苦しみと美しさ

リストカットなどに代表される自傷行為はなぜタブーとされているのだろうか。例えば、タトゥーや、スキンリムーバルなどは、皮膚を傷つけるという点では、自傷行為と同じである。しかし、それは場合によっては美しさとして認められることがある。それはどうして認められるのだろうか。自傷行為と別の部分的に似た行為を比較しながら考えて行くこととする。

 

① 自傷行為とタトゥーや入れ墨
自傷行為とタトゥーや入れ墨は、皮膚を傷つけるという点では何ら変わりのない行為だと考えられる。しかし、美しさの世界では明確に分けられる。ただし、両者の境界線は曖昧であるともいえる。確かに、美しさを求めるために、タトゥーや入れ墨をする人もいるが、曖昧なまま行っている人もいるからだ。
日本においては、どちらもタブーとされることが多い。が、スキンリムーバルは、美しさの1つの領域として認められることがある。世間一般の認識としてはあまりよくないのかもしれないが、愛好家がいることは事実である。そのため、曖昧なまま進んでしまう人もいるのではないだろうか。また、アートという形を取ることによって、安全な方法で、皮膚を傷つける確率が上がる。そのような要因も曖昧さの原因ではないだろうか。

② 自傷行為と過度なスポーツ、筋トレ
自傷行為と、過度なスポーツ、筋トレは自分の健康を害すという点では同じではないだろうか。スポーツも行き過ぎれば、疲労骨折や肉離れなど自分の健康を害すことになる。また、筋トレによる食事制限は食の楽しみを奪うことになるのではないだろうか。しかし、自傷行為と過度なスポーツ、筋トレは明確に区別される。それは、目標があるからだ。筋トレやスポーツには自分の理想や美しさにつながる。実際、筋トレ愛好家によるコンテストは各地で開かれいるわけだし、各種のスポーツ大会は世界中で開催されている。


上記の点によって、自傷行為とその他の行為は明確に分けられる。しかし、私が関連付けた理由は「脳内物質の放出」の仮説のためだ。筋トレをしようが、スキンリムーバルをしようが、自傷行為をしようが脳内物質が放出されるのではないだろうか。苦痛を味わうことによって、脳内物質が放出される。その他の行為より、自傷行為がタブーとされるのは思い立ったらすぐにできる点と苦痛の度合いが低いからではないだろうか。結局、脳内物質の点から見ればどの行為も同じなのだが、社会的容認度で言えば違うのであろう。社会は楽して脳内物質による快楽を制限しているのではないだろうか。本筋とずれるが、麻薬の乱用を多くの国が制限しているのも同じ理屈によるものだろう。


自傷行為は脳内物質をいとも容易く得るといった点では、非常に合理的な行為ではないだろうか。それによってできた傷跡が、多くの人にとってグロテスクに映るのは、楽をしすぎている点を非難しているからかもしれない。自傷行為をする心理というのは追い詰められており、決して楽をしてやろうという意志はないのだが。その辺ズレが当事者と非当事者の意識を分けてしまうのかもしれない。

「受容」

いつか、いつの日か私のことを丸ごと受け入れてくれる人が現れるかもしれない。そんなことを昔は考えていたものだが、そんな人など存在しない。

では、私自身は、誰かを丸ごとに受け入れたことがあっただろうか。許容と理解なら、あり得るが、受け入れたことはない。
このようなことから、人から丸ごと受け入れられることなんて、不可能であるのだ。

それでも、かつては存在していた。それは、羊水である。生まれる前の、独立していない存在であれば、丸ごと受け入れられているのではないだろうか。もう、戻ることなどできもしないけど。

そもそも、人に受け入れられるというのはそんなに必要であるのだろうか。別に、人から受け入れられなかったとしても、それによって、肉体的な死を迎えることなどないのだ。人から受け入れられるというのは、人にとって、付加要素である。
確かに、誰かから受け入れられることによって、人の精神は安定する。居場所ができたような気もするし、なんだか、なんでもできるような気がしてくるのだ。ただし、受け入れられると、丸ごと受け入れられるは別物である。相手に、多少興味を持ってもらって、僅かな理解だけで、安心した空間は作り出される。そのため、別に丸ごと受け入れられる必要などないのだ。別に、安心した空間だって無理して作る必要もない。必要最低限の他者との交流ができれば、社会的な死は避けられる。

丸ごと受け入れられるなんて、幻想でしかない。だからと言って、想像しないことはない。現れる訳ないけど、現れたらいいなって。その辺にもまだすきがあるというのかな。

「領域a」

ここ数日、頭が割れるように痛い。「割れる」という表現は少々、オーバーであるが、彼女にとって、数日に渡っての頭痛というのは経験したことがなかった。そのため、少々オーバーな表現をした。彼女の頭痛の原因など分かりきっているのに。


あの日のままで変わらない我、


残された人の時間というのは止まってしまう。彼女もそうであった。頭痛という体調の変化は、時間が止まったように感じるそうだ。永久のごとく、押し黙った時間のようだと。そんなことはありえないし、痛み止めを飲めば、一時的に痛さは収まる。だけれども、何かを断ち切ってしまったような気がしてあまり気が乗らない。そのため、彼女は余程痛くない限りは、痛み止めを飲まない。

 

作り出された存在というのがあり得ることだとしたら。そんな空想をしたことがある。作り出されたということは、誰かにとって、都合の良い存在でなければいけない。しかし、都合の良すぎる存在というのは、不自然であるし、他者から見れば、異形の姿でしかないのだ。彼女の作り出された存在というのは、無関係な人の手によって壊された。

 

話は、戻るが、彼女が頭の痛い理由とは何か。アディクションの後遺症ままならない。空いてしまった穴を埋めるために、アディクション的行動を取るのだ。そういうのは、とある疾患の感覚に似ているらしい。そんなことをしても、何も変わらないことは分かっているのだけど。

 

加速する世界の中で、あの人たちはどう暮らして行くのだろうか。彼女は、ふと思った。手放してしまったが、情報や世間の移り変わりというのはあまりにも早い、ぐだぐだしていると取り残されてしまう。はっ、彼女もか。彼女自身も、そう思った。だからと言って、対処する術などないけど。

 

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