国際女性デーと家人の誕生日

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2018 年国際女性デーをお祝いしましょう。今日の #GoogleDoodle で世界中の女性たちのストーリーをご覧ください。

 

お久しぶりです、鈴木夢眠です。 本日は国際婦人デーだそうです。ジェンダー学見習いの身としては触れておきたいテーマだなと思い記事を書いてます。

 

そもそも、国際女性デーとは何なんでしょうか? 検索すると以下のように解説されていました。

 

国際女性デー(国際女性の日)*1

毎年3月8日は、女性の権利と世界平和をめざす「国際女性デー」として、世界各国で記念行事や催しが開催されている。20世紀初頭のアメリカにおける女性の社会主義運動に端を発し、女性の選挙権獲得を求めて「女性デー」として集会を行った1909年2月の最終日曜日(28日)が起源とされている。1910年に開催された第2回国際社会主義女性会議(コペンハーゲン)において、クララ・ツェトキン(ドイツの社会主義者・女性運動指導者)らが、女性問題にかかわるあらゆる要求を国際連帯の下に取り組んでいこうと「国際女性デー」を提唱、多数の賛同を得て採択された。このことを契機に、以降女性デーは世界的に広がっていった。国連では、国際婦人年(1975年)に初めて「国際女性デー」が実施され、1977年には国連総会で「国際女性デー」(3月8日)が決議された。日本初の女性デーは、1923年3月8日に「種蒔き社」主催で行われたが、集会は反対派の妨害で混乱し40分後に警察によって解散させられたという。その後戦争などで一時中断した時代を経て、戦後は政党や労働組合婦人部が中心となって全国各地で集会を行うようになった。現在では、一般の女性団体・グループなども、この日を記念にした事業に取り組んでいる。(2004.3)

 

女性の権利と世界平和を目指す、と大きなことが書かれていますが、一般的な人は何をしたらいいのかよく分からないところです。普段より、様々なサイトや企業さんが情報発信をしていることが多いので、興味深くはあるのですが。

 

個人的な話にもっていくと、毎年のように私の誕生日は「国際婦人デー」なんだと宣伝してくる人のことを思い出します。それは、私の母のことなんですが。なぜか、私が割と小さい頃から、毎年「私の誕生日は国際婦人デーだ」と主張します。母は、ジェンダー問題に詳しい人でもないのでなんで知ってるだと今は思いますが、小さい頃は毎年聞き流していました。その発言に意図があったかどうかは分かりませんが、今よりジェンダーやら、女性の権利だとか言われていなかった時代から主張していたということは少し先進的な人だったのかなと解釈することもできます。まあ、たまたま話題になりそうな記念日が国際女性デーだっただけかもしれませんが。

 

最近の女性問題やら、ジェンダー課題を思考して、こねくりまわして、考える日々が続いてます。流石に公式として電子の海に意見を流すだけの覚悟は決まってないのですが、オフラインの場では意見交流を試みたりしてます。討論をしても問題ない立場にようやくなれたところです。閉鎖的な空間では、出る杭は打たれるだけだったので。今が一番楽しい時だと言い切ることができる。

いつか電子の海に情報を発信できる立場になってみたいものです。今回はエッセイということにして誤魔化したけども。

 

 

「3周年」

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1月11日、はてなブログさんから3周年お祝いメールが届いた。このブログを始めて3年経ったということらしい。そんな自覚は全くなくて、月日が流れるのは早いなぁと思った。

 今から3年前、このサークルの屋号「夢Code Core」が決まり、ブログを作り投稿した。当初に考えていたこととは関係のないことをやってみたり、寄り道しながらサークルの物語は進んでいる。予定を立てても思い通りにできるだけの技量はないし、作った時に立てた目標を達成しているわけではない。そもそも、設立の時に売りとして書いていた小説は未だに完結していないし、書き切れる自信もない。その作品の色紙をいただいたりしていて、その物語を気にかけてくれている人は確かに存在する。作者の義務としては完成まで話を持って行かなくてはならない。

 2年前だったか、年始に今年度の目標と題した記事を投稿したが、そんなものは達成されなかった。そのため、今年はそのような目標を掲げることはしない。

 

 そもそも年明け1本目の記事がこれになるとは考えてもいなかった。近況報告も兼ねて、最近書いたエッセイを掲載することにしよう。

 

・2018.1.9  「投げつけられた鎖(鎖は投げつけられる)」

 ある人には口癖がある。話相手が言葉を発し、それを一通り聞き終えると、文末にある一言を付随させる。それは必ずといってもいいくらいの確率であった。その口癖は不思議な言葉でもあった。まず、どのような文脈においても違和感がない。そして、相手を不快にさせることはない。便利な言葉であった。しかし、その言葉には重大な欠点があった。それは、特定の界隈に所属してないと真意が伝わらないということだ。界隈に所属していない人間にとって、その言葉は挨拶のようなもので、特定の意味を持ち得ない。特定の界隈に所属している人が聞くと意味を持ち、強い言葉として動き始めるのだ。

 nはその言葉を理解していると考えていた。nは特定の界隈にどっぷりと浸かっていると思っていたし、何よりある人の理解者であるとも思っていた。nは少しだけ優越感に浸っていた。

 しかし、それは誤認でnはとある人の言葉を理解していなかった。というよりも、理解者として認識されていなかった。とある人にとって、nが文意を読むことは想定外だったのだ。

 だからといって、とある人はnを除外することはしない。生かさず殺さず様子を見ることにしたのであった。

 とある人の言葉の強さは日に日に増していき、nは苦しむようになった。しかし、nはその領域から立ち去ることはしなかった。とある人の言葉は私しか理解していないんだ、だから、私が逃げてしまったらとある人の世界は崩壊してしまうと思い込んでいたからだ。

 そんなのはただの思い込み。だけどとある人の言葉はnを絡みとって話さない。鎖とでも言うべきか? 鎖だとしたら名付けなくてはならない。名付けないと、ただ苦しいだけの鎖になってしまう。

 名付けると言っても、どう名付けるのか? なんだか面倒くさい。だけども名付けないと死んでしまう。死なないためにも名付けなくてはならない。



新年始まって、1番最初に思い浮かんだ短編です。領域外伝と言ってもいいけれども、領域の話とも言いきれないなぁってところです。今年もごちゃごちゃ領域の話を書くんだろうなぁと思いつつ、いい加減ちゃんとストーリーのある物語を書きたいとも思いつつ。ストーリー性のある物語の書き方がよくわからなくなってきてもいます。


挨拶が遅れましたが今年も本サークルをよろしくお願いします。


2018.1.13 鈴木夢眠

よくありがちな齟齬について

別に一つのことを記述しているわけではない。最近の話でもない。どこかで起こりうる話であった。いつのことと聞かれても明確さはない。いつのことでもない。どこでも起こりうるがゆえに。

人間はコミュニケーションを取っていた。伝達したいと考えていることには齟齬があった。感情をやり取りしたいのか、それとも思考をやり取りしたいのか。人間はわざわざ確認を取らずに会話を進めていた。

人間の気持ちを一番軽くする方法は何なのだろうか。思考のやり取りによって自己理解を深めるのがよいだろうか? それとも共感による救いか。

そんなことは誰かが答えを出すことではない。考えるしかない。どちらが求められているかと。

人間は誤認する。

 

甘えというものがあまり好きではない。別に存在を否定しているわけではないが。その前に思考することはできなかったのかと。といっても、わからないから甘えるだけであり、それを否定することはできない。否定することはできないというループにはまる。

 

電子の海にわざわざ言葉を流す意味はあるのか。結局、甘えでしかないではないか。ばかばかしい。

個人的なことを言葉にする(備忘録)

何回目かの文フリに参加した。新しい出会いがあったり、たくさんのことを思考したり。充実した1日だったと思う。言語をやり取りしてて、思ったことがあったので忘れないうちに書いておこうと思う。

・ハリボテ
鈴木夢眠は完璧主義なのでは? と言われた。全くそんな自覚はなかったし、そもそも私のプライベートを知っていたらそんなことを言えるはずはない。よく、待ち合わせには遅刻するし、部屋はきれいな状態とはいえない。諦めることだって数多く経験した。いや、でも気付いてないことだってある。発言者の意図を探った。そもそも挑戦する前に物事を選択している場合を考えた。それならば当てはまる。思える到達点まで持っていきたいが故に、やること自体を取捨選択することはありうる。失敗しないだろう、自信のあることを選択しているのだ。
意図的に物事を排除することによって、見せかけの完璧が出来上がるのだ。

・老人
作品の傾向について。他者目線で書くのが苦手だ。話し合いの結果、自己を正確に認識していないからとなった。確かに、自分自身が何者であって、どんな人物かという問いは意味をなさないと思っているし、どうでもいいことの一つだ。しかし、ずっと興味のないことではない。昔はすごく興味があった。考えるがわからないし、他者を巻き込んで考えなくては分からないし、迷惑がかかるからやめた。一貫性がないと客観視するのは難しいらしい。
尊敬する人は言った、「迷惑のかからない関係性は存在しない」と。確かにそうだ。喋るという行為は相手の時間を使うことになるし、関わる事自体迷惑なのだ。だけど、関わりたいと願ってる。

他人にどう思われたいか?
→よく思われたい
→どうでもいい
→その他

わからないけど、そりゃ良くは思われたいと願う。でも、そのためには分析は必要である。

・庭
箱庭に引きこもっていた。関心は向けられていた。だけど、住人は見ないフリをし続けた。箱庭の外では目まぐるしく変わっていく世界。箱庭は忘れ去られていく。

領域外伝

yumecordcore.hatenadiary.jp

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 ー人にとって書く行為というのは精神の安定のためにあるのかもしれない。

そんなことは昔から言われていて、特に目新しいことではない。心理学的にもちゃんと立証されている。ストレスとの向き合い方の話にあったはずだ。強いストレスを感じた時は、考えていることを整理するためにも書いた方がよいと。

 ただ、書けるという状態は急性期に比べたら、随分と落ち着いた状況になっている時である。大変な時に書くとか、表現するとかそういうことはできない。生きるのも険しいかもしれない。生きることが必ずしも正解ではないが。

 世の中にはどう頑張っても助からない人が存在する。海外の人でとある病気(精神的なもの)を患った人がいたのだが、その人はどうも生きるのに向いていなかっただろうという印象を与えた。結局、20だったかそれくらいの時に亡くなってしまう。書いたら生き延びることができるかもしれないが、その人は書いたにも関わらず生き延びることができなかった。その病気は直接的には死なないが、間接的な要因による致死率が案外高いとも言われてはいたが。

 死んでもよい人間が存在するとかしないとかそういう議論はいくらでも行われている。インターネットの箱庭でも繰り返し行われてきたであろう。

 とあるネットワークから外れてしまって、また戻りたいと願わないのであれば、それはイコール死であろうと考えている。そのとあるネットワークというのはセーフティネットではない。人によって変わるし、そもそも存在しない人もいる。別に資格とかそんなものは存在しないはずだけど、人がそれにこだわれば発生してしまう。それは何においても共通することであるが。こだわれば新たな基準というものは発生する。

 

 

 前置きはこれくらいにして、今回書きたいことを進めていくことにしよう。 といっても今回書きたいことはつまるところ何なのかなどと問い合わせがあったとしてもそれに答えることはできない。さっきの前書きは補足でしかない。

 

*主語が著しく省かれ代名詞が多く出現します。理解できない箇所があっても気にせず進めてください。特に意味はないです。(そしてこの注意書きにも意味がない)

 

 とある人は、狭間に住んでいる。何の狭間か? 人々の意識下ではないところというのが1番適当である。無意識の世界、無意識の海に住んでいると主張する。そんなことはとある人以外にとってどうでもよい事実なので、無視されていく。

  とある人はいつも通りに領海を見回る。ウイルスバスターのように領海を見てまわり、もし侵入者がいたら制裁を与える。そんなことを繰り返す日々であった。とある人は侵入者に対してはかなり厳しい方である。たまたま道を間違えてしまった人にも処分の手は緩まない。何がなんでも侵入者には容赦がない。基本的には侵入者は殺される。

 その場所には時間という概念が存在するといえば存在するが、それは各自の采配に任されている。そのため、1日が必ずしも24時間とは限らないし、1週間が7日とも限らない。統一はしていない。一応、一般的に知られている、1日は24時間で、1週間は7日というのが知らされてはいるが、それを守るものはほとんどいない。

  とある人はいつも通り、領海を見回る。そこに朝も昼も夜も存在しない。無限に時が流れるだけだ。同じことを延々と繰り返している。

 その場所に他者は存在する。しかし、それは望めばということである。望まなければ他者は存在しないし、望めば他者は自然に現れる。そんな自由に扱えるような空間であった。その場所における他者というのは、蝋人形のようなものであった。意思を持たせることは不可能とはいえないものの、不可能に近い行為であった。意思を持った他者はすぐに壊れてしまう。無機の蝋人形は、いつまでも存在し、長持ちした。

 とある人はいつも通り、領海を見回る。たまに湧いてくる侵入者を殺し、その死体を食べて生き延びていた。その死体は生物の死体(肉)ではなく概念であった。概念を食べることは不可能のはずであるのに、なぜかその場所では可能になっていた。

 その場所に存在しないものはなかった。どこにでも繋がることができ、何でも取り出すことができた。限界というのは塗り替えられるもので、決めつけてしまえば生まれ、考えなければ生まれない。何でも存在することができた。

 

 平凡な語り口に飽きてきたところで。誰かは何か挑んでいる。何に挑んでいるのか? 見えざる限界にだ。全てのことは望まれているのではないかという。不幸な自己であってもそれは本人が望んで不幸の状態になり続けているのではないかと言う。不幸な状態というのが中毒になっていて、不幸というのは中毒症状の一種だとも言う。それについての言説はしない。どこかに壁打ちされた言語でしかないからだ。

 

 

 今日はいい夜ですね。

 

鈴木の本棚part2

お知らせメールの影響もあり、1年前のブログを読み返した。私の本棚について説明されている文書だった。

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1年経ち、私の本棚の様子はかなり変わったような気がする。まず、中古で購入したり本が減り、新品購入した本が増えた。また、SFに手を出すようになった。本棚には、古典や、有名作家の作品が並んでいる。まだ読めていない本もあるがぼちぼちと読んでいきたいと思っている。

 

短歌に興味を持ったという話が記載されていた。影響を受けたのはその頃だったのだろうか。今ではよく覚えていない。はてなブログを漁ってみた。なぜかもっと昔に短歌とも呼べないが、短歌の形をとっている作品を発見した。

 

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長く興味を持っていたことは、理解できたが、それを実際の行動に移せたのはつい最近のことである。いつの間にか、私は受け手だけではなく作り手にもなっていた。歌会に参加するようになっていた。1年、そんなに長い期間ではないと思うのだけど、意外にも変化していた。

 

ついでみたいになってしまうが、今の状況でも書いてみようかなと思ってしまう。何の気なしに、書いた記事が1年経って、自分が過去に考えていたことが知れるとしたらそれはとても面白いことだと思う。

 

実をいうと、私は一時期物語を軽視していた。医学論文が世の中で一番良い読み物だと思っていたことがあった。(これがのちにSFにはまっていく要因です)物語なんて読まなくても高度なことが全て記されていると思い込んでいた。

その時期に書いた原稿は、全て意図的に物語にしないようにしていた。しかし、満足いくものは作れなかった。当たり前である。物語を軽視するひとが作品を作れるわけがない。なぜ、そんな思い込みをしていたか。明確な外部的な基準がほしかっただけなのだ。ただ、それだけのために読み漁っていた。

 

よくわからない感じになってきたのでここら辺で。

「言葉を吐き出す」

弟の通っている塾では講師に対して、「死ね」という生徒がいるらしい。発言者は、4年前の私の世代と比較して「生徒の質が変わったのか?」なんて言っている。

 これは質の問題だけではないと思う。いつの時代にも、なぜか人に「死ね」と面と向かって言える人間は存在する。それが、どこで発言し、発散されるのか、という問題だと思う。

 このケースの場合、生徒は塾講師に向かい、「死ね」と発言した。ある意味では、かなり発言者は考えられているのではないだろうか。一般的な塾というのは、金を払うことによって勉強を教えてもらう場所だ。嫌なら辞めればいいだけのところだ。しかし、捻くれた考え方をすれば、金を払っているということは、生徒はお客である。客であれば何をしてもいいとは言えないが、多少わがままとか、嫌味を言っても言い返してこないだろうという可能性は高い。だって、講師からしてみたら顧客が1人減るということは、大変困ることである。塾なんていくらでもあるが、顧客となりうる対象は減り続けているのだから。

 まあ、それは相当売上の悪い塾か、人としてのプライドを捨てて、金儲けの為に頑張っている企業の可能性が高い。高級塾と言われるようなところは、そもそも入塾する為に、テストを実施するところもあるし、入塾するのに許可がいるような場所もあるという。そのような塾で、このケースのような発言をした場合、まあ発言者の生徒は、塾を辞めさせられるであろう。

発言者は、鬱憤ばらしの為に塾講師に「死ね」と言ったのだろうか? そのように仮定するのなら、「水は低い方に流れる」というのがよく当てはまることだなと思う。発言者にとって、塾講師というのは、日常的には付き合いのない人間である。そして、嫌になったら適当なことを言って辞めればいい。そのようなところにしかストレスを発散できないのは、少し悲しいとかそんなことを考えてしまうけど、発言者にとっては、その場所しかないのだろうか。

 ストレスを発散するのって、現代人においては、大変なことなのかもしれない。(過去の方が楽だったとか、そんなことを言いたい訳ではないのだけど、うまく言い表す言葉が見つからない)

分からないことは多いのだけど、場所の選択肢が減ってきているのかな、と思ったり。それはリアルな空間においてなのだけど。インターネットの海は莫大で、どこまでも果てのないような気がするのだけど、リアルな空間ってすごく狭いような気がする。世界は広いとか、いう人いるけど、それは冒険者が言うことだ。冒険者ではない人は、小さな箱庭にこもっていなければいけないような気がするのだ。(いや、これは思い込み)

一人の人間が所属できるコミュニティって、そんなに多くはない。限られた空間の中で何ができるか? という問いが発生するのだけど、それはよくわからない。

領域b

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領域aの件から、随分と時は流れた。彼女は現世に存在はしていた。それが嬉しいことなのか、悲しいことなのかは分からない。誰も評価することはできないのだ。それは、誰も興味を示さない事案であるということを暗に示してる。

便宜上、この空間には、領域bとつけた。それは、以前の記事にnext→領域bとかかれていたからであり、実際に彼女が領域を移動できたのかは分からない。観測のしようがないというのが、分からない理由の1つである。また、同一性を保っていないので、移動は必然的なのか、人為的なのかという見極めが難しいのも、理由の1つである。

序論はこれくらいにして、しばらくの間に彼女は何が変わったのか?
とある方の話によると、改悪されているらしい。しかし、それを止めることはできない。一難去って、また一難ということか。明るいニュースを届けたいところではあるのだけど、現実はそうも簡単にはいかない。それが、色濃く出た1件ということなのだろう。

彼女は今後どうなっていくのか? これは中間レポートみたいなものらしい。といっても、書き手の私がそれを理解することはできない。私はただの、物語の紡ぎ手でしかなく、詳しいことは何も知らない。ただ、代理的に文字を紡いでいくことしかできない。

彼女は泣いていた。理由もなく、ただひたすらに泣いていた。泣き止むことはいつのことになるやら、といった感じであった。誰かが、なんで泣いてるの? と聞いたところ、悲しいから泣いているのと答えた。じゃあなんで悲しいのかい、と聞いたところ、それは分からないと。
理由もなく悲しいことがあるということを、質問者は理解できなかった。彼女と質問者は、永久に交わることはないだろう。

こんな空間に意味などあるのですか? どこにも届かない声を、彼女は投げる。言葉は鳥になって、飛んでいくのですよ、なんて誰かに吹き込まれたせいで、意味もない問いかけを投げ続ける。


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