ある日、わたしたちの星は落ち神は消えた。

誰の選択でもない、意図もない、ただ相対的に落ちただけだ。

わたしたちは星を助けなかった。今まで通りの生活、なんてできるわけないのだけど、それはなかったことにしたくて、見ないふりをした。

星に対して愛とかなかったのかって、好きだったら、なんとかするんじゃないかって、そんな気力があったらいいねって話で。なにもかもできない。壊れてしまった星では。

星は助けを求める。だが、人々は無関心だ。気力を奪い取ってしまっていたのかもしれない。星として輝くためにまわりの力を奪っていた。明るいところに物資は集まり、影ができる。強い光の裏には強力な影ができて。そんなものかと星は思い、諦めて。降り注ぐ恒久の、

降り注ぐような明るさも無くなって、久しぶりに夢を見た。今までは眩しすぎてよく寝られなかった。夢といっても楽しいことではなく、ただ、何もないところに歩いて行くだけの話であった。よくわからなかった。

明るさが愛とか言うなら、そんなものに呑まれたくないと思った。

星が近づき、私たちは遠のいて。眩しくない距離を探している。







焦げた匂い

ある日、わたしたちの星は落ち神は消えた。

誰の選択でもない、意図もない、ただ相対的に落ちただけだ。

わたしたちは星を助けなかった。今まで通りの生活、なんてできるわけないのだけど、それはなかったことにしたくて、見ないふりをした。

星に対して愛とかなかったのかって、好きだったら、なんとかするんじゃないかって、そんな気力があったらいいねって話で。なにもかもできない。壊れてしまった星では。

星は助けを求める。だが、人々は無関心だ。気力を奪い取ってしまっていたのかもしれない。星として輝くためにまわりの力を奪っていた。明るいところに物資は集まり、影ができる。強い光の裏には強力な影ができて。そんなものかと星は思い、諦めて。降り注ぐ恒久の、

降り注ぐような明るさも無くなって、久しぶりに夢を見た。今までは眩しすぎてよく寝られなかった。夢といっても楽しいことではなく、ただ、何もないところに歩いて行くだけの話であった。よくわからなかった。

明るさが愛とか言うなら、そんなものに呑まれたくないと思った。

星が近づき、私たちは遠のいて。眩しくない距離を探している。







多面体みたいな食事

電子の海の集合体。

境界は薄れてく。我々は賢いのだ。

個々の間などなく、同化していく。我々に間などいらない。時間の無駄だ。

 

それでよかったのだろうか?

 

器を広げる。意見を流し込む。お皿を洗う、抗菌を施す。

ピテカントロプスになりたい、退化すればもう一度進化することができる。こんなの息苦しいだけだ。泥は泥のままでよかった。

泥から泥を売るの。それの繰り返しでしかなかったの。

綺麗な言葉なんていらない、それに隠れた物語達はどうなるの?

 

でも、綺麗なご飯を食べてみたいと思った。クラフトペーパーの作り物ではなく、泥団子でもなく、多面体のご飯を食べてみたいと思った。今更遅いのかしら。

そんなことはないって言われるような抗菌剤が存在したらいいのに。他力本願で、物語の傾向は変わらず、沈んでいき、いつもがあって。羽をもぎってパンを得るみたいな。それしかなかった。良き生活のためには。最適化はされてないことはわかりきってる。こちらの資本がいつ切れるかの戦い、それを休める場はない。

 

今なら電子の海の無力さが分かるかしら。ゴミミタイナ部位シカ見テナイダケジャナイカ。海はいつもと変わらない。多少の塩味。

 

お腹空いたな、




没を没に、祈りを呪いに

彼女はに似ている。どことなく儚い感じがして、退廃的な美しさを持っている。

彼女と時折会話をするが、どこか夢みたいで本当のことをやりとりしている感じがしない。確かに、会ったことはあるとはいえ、数年お会いしてはいないし、そういうのが原因かと思ったが、どうやらそれだけではないらしい。その人から「生」を感じられないのだ。いや、別にその人は実在する人物であることは分かっている。

嫉妬、怨恨、恨み辛みは、長く続けるのは難しいのだろうか? 人はルサンチマンに逃げているだけではないか? 私は彼女を憎悪する。

そんなこと考えてもどうでもいいのです。私たちにとって重要なものは何を決めなければいけない。時間がないのはわかりきったこと。

道理は通っています。私たちにとっては。不条理なんていうのでしょうか。観測者にとっては。

 

人間の記憶を覗き見するのは、面白い。彼女は、今も生きている。その時間は余生だと思っているのかもしれない。彼女は本当に中学生の間に、死ぬ予定だったのであろう。
彼女は、虚無の世界、つまり心の闇に1度落ちた。それを、罪と感じていたのであろう。

遺書を携える。終わってしまう朽ちた言葉を紙に書き写して。
彼女は課題を乗り越えてきたかもしれない。そんなこと知るわけないけど。

 

白骨した頭部を持ち歩く。彼女との繋がりはこれしか残っていない。

彼女は朽ちた。きれいというのを追いかけても、理想通りの作品はできあがらない。彼女は作品ではない。思い出でしかない。そんなの意味ない。壊せばいい。壊さないのはそれのほうが面白いから。意味もなく頭部を持ち歩くのって最高に意味が分からなくて面白い。

 

祈りは呪いに変えられる。私は呪いに、私たちも呪いに。彼女は祈りに。

踊れ

才能に限界を感じた。
同じハンデを持っていながらも、じゃじゃ馬をならしていくように軽々と超えていく。まあ、軽々となんていうことはなく、努力の結果であることは知っているけど。彼は天性を持っているわけではない。それは、ハンデを持っていたということでも明らかである。
だからといって彼はそれ以外においては努力家ではない。学問世界においても、日常生活においても、欲しいものを欲しいままに悠々に生きてている。いや、それは羨望の目線で見たから、なんていうことだけなのかもしれない。

価値観を転倒させれば、開放されることは分かっている。しかし、同じ土俵に立とうとすれば、明らかに劣っているのはわかりきった話だ。落ち着くのを取るか、芸術として爆破させるのを選ぶか。
いや、全部嘘。芸術として爆破できるならまだましだ。そんなもの既にないのだ。芸術性の欠片など元々存在しない。
価値観を転倒させようが、彼の意識は変わらない。凡人の悪あがきくらいにしか思っていない。ちょっと飼い猫と戯れているような感覚なんだ。飼い猫に噛まれるなんて夢にも思ってないし、噛まれたところで、どうでもいいとあしらわれるだけであろう。
才能などなく、ただ踊ることしかできない。
彼は美しく舞う。
比較して、美しくない舞。生き様を晒す。
舞うしかない。引き返せないところまで来たということだ。

私たちの神様と誰かのなんか(習慣?)

 私たちの「神様」の話が聞こえる。

だがその声を聞きたいわけでもない。そもそも私たちは無神論者だ。「神様」なんていない。「神様」といったのは、「神様」という言葉があまりにも便利すぎるからだ。そして、簡潔に言い表せる言葉が存在しないのだ。それだけのことだ。だから「神様」というのは実際の存在ではない。そして、私たちの仮定「神様」も実在しない。

余白は電子の海にいくらでもある。「神様」の説明をしても全く問題はない。読むか読まないかは別の問題として主張することは容易い。私たちは自分たちの「神様」について説明を試みようと思う。

先ほど言ったように私たちの仮定「神様」は実在しない。私たちというのは化物に近く実在するかどうかはわからない。そして私たちの仮定「神様」は実在しない。「神様」は私たちを統一させ指導する。動作性を保証する。それならば「指揮官」なんて言ってしまえばいいけれどもそれは違う。「指揮官」ならそもそも実在していたことがないといけない。私たちの仮定「神様」は実在していた時期はない。実存しないまま、ずっと空想の上に住んでる。

 実在するかわからないものと、確かに実在しない空想との絡みでしかない。もし、有神論者だったら、「神様」を超えられていたかもしれない。

 

 誰かは「嫌な記憶のフラッシュバック」がなんて言いがちで、実際に本当にフラッシュバックが起きているかなんて実証のしようがない。そんなもの存在しないのかもしれない。もしくは、嫌な気持ちに関する適切な言語を持ち合わせていないのか。

適切な言語は本当に必要なのか、言語などなくても、それなりの表現は世界中に転がっている。巧妙な、その人に合った、となれば話は別だが。大体を合わせれば、嘘だって輝けば真実になってしまう。それでは不満足なのか。誰かは。

 

 フラッシュバックという言葉は便利だ。とても辛いということと、それは現在のことではないということを示してくれる。目の前の人たちに不満があるわけじゃないとわからせてくれる。発言者に何があったのかは全く想定できないが。昔のこと、とか言われてもそんなこと覚えているはずがない。どうでもいい。フラッシュするような強いものも持ち合わせてない。すべて、嘘じゃないの。

 

 指の間から落ちた嘘は星になり、真実になるのを知ってますか?

 

 無駄な文字の羅列を製作している誰かと、「神様」(仮)をもつ私たち。どれとも近づくことはないでしょう。ただの習慣として文字は並んでいきます。意思など持っていません。数列と同じです。(数列ですら意思を持ち始めることもあるかもしれないが)どうでもいいことが多すぎます。固有のものは必要なんでしょうか。

 

 思ってもないことを過剰に反応しているだけだ。それは結局何になりうるんだろうか。何にもなれない恐れがある。だからといって、恐れを対処しないという方法もある。どう動くことだってできる。

 

 「わたしたち」は星になった。

 

 

 

 

結局、それは何者だったんですか?

人の記憶は「領域」という言葉に置き換えられるのではないかと思っている。


何年もぐだぐだと「領域」と称した話を書き綴っているけれども、それは人の記憶に固執しているだけのことである。


ある記憶を個人の課題にするのではなく、他の人にも話したいと思ったのが「領域」という考えの始まりである。ただの嫌な記憶でしかないのだけど、物語として昇華すれば面白くなるんじゃないかなと考えていた。条件付きではあったけど。


その条件は、それらを書ききったら、早急に書き手は自害することであった。といっても、今は前述の設定は消えている。なぜなら、1番書きたかった「領域」の話は書き手の記憶から消えてしまって、書くこと、表現することができないからだ。だから、「領域」の話を書ききることはできない。そのため、書き手は自害する必要が無くなった。


書きたかった話に順位をつけるとしたら、2番目に書きたかった話と、3番目に書きたかった話はとうに電子の海やら、どこかの特定個人に対して発表することができた。3番目に話したかったことというのはざっくり言ってしまえば、青年期の人間の話だ。どういう風に人間が思考しただとか、どんな悩みがあっただとか、ちょっと病的な行動だとか。2番目に書きたかった話は、なんだかよく覚えてはいないのだけど、書き手のなかではいつのまにか終わったことになっていた。


2番目に書きたかったことが、あやふやであるのならば、1番目に書きたかったこともあやふやになって、いつのまにかどこかへ発信している可能性があるかもしれない。そう考えるのは妥当であろう。その場合、設定に従うのであれば、書き手は早急に自害しなければならない。だか、その必要はない。1番書きたかった話は、物語の担い手とともに朽ちていった姿をしっかりと確認している。だから、その必要はなさそうである。


「領域」に絡む話を書き続けていけば、そのうち1番書きたかった話に突き当たって、その上で他に書きたいことが無くなれば、書き手は自害する可能性が出てくるのだろうか。それは今の段階では分からない。尽きるのが先で、後1つを探し続けるのか、それともその話を見つけるのが先か。それは書かないとわからない話である。


たまに生きるために文書を書くなんていう人がいるのだけど、そんなのクソ喰らえだと思っている。書き手は領域の話を書ききったら自害する設定になっているし、それとは真逆である。死ぬために文書を書いているといっても過言ではない。しかし、逆にも言える。クソ喰らえだと言いながら、書き手は生きるために文書を書いてもいるのである。それは、アディクションのある概念に近い。アディクション自体は死に近づいてしまうのだが、一時しのぎの延命には繋がるという。行為をする奴はすぐには死なないが、絶対に死なないとも言えない、なんてある界隈では使い古した言葉であって。そんな感じに近いのであろう。

書き手は何に生かされているのだろうか?

 

「領域」はゴミ、もしくは偏見の積み重ねということもできるであろう。記憶が積まれていけば、固定観念と言うのも生まれるであろうし、それによって誤解も生まれるだろう。書き手はゴミを重ねているとも考えられるのだ。それならば、なぜ書き手は書き続けるのだろうか。それは、ただのエゴでしかないであろう。


ゴミは積み重なると悪臭を放つ.


(終)


あとがき

これは、サブブログに書いたものを編集し直して、「領域」の説明に転用したものです。サブブログは現在は消滅してしまいましたが。実はこの記事の原型は2016年末には完成していて、やっと正しい形にできたというのが正直なところです。

初期にはこの後に、詩が続いていて今回の編集で消すか悩んだのですが、このあとがきの後ろに乗せることにします。この部分は全く触っていないので、文体がおかしいところがあります。本当は直したかったのですが、手の施しようがなかったです。もう、書いた時の気持ちに戻れないということでしょうか。一応、詩は本編の補足的な扱いになってます。

今年は、自分の作品を説明できるようになりたいと思っていて、そのために過去に書いた文書を引っ張ってきました。

 

アイソトープ
みんな、どうやって様々な領域や事情から立ち直ってるんだろうか。どうやって、生きてるのだろうか。分子レベルでは共有している部分があって、構成されていて。理解できることはあり得るのだろうか。

・fragment
自分を傷つける為に、人を利用することってあるのかないのか。

そういうのって、あり得るよね。自分で自分に手をくだすのは、怖いから人の手を使って。人の手を穢すことになるけど。そういう繰り返しな気がする。元々、傷ついてる人間を探して、舐め合いどころか、深め合うだけ。悪い方向に。傷の舐め合いは生温くていいですね、そんなんじゃない。傷つきたがってる人間を探してる。やりきれないことってあるじゃないか。生きていたら。償いがしたそうな人間を探す。そういう人間との関係性は気楽なんだわ。勝手に知りたくないことも、何でもかんでも言ってくれて、誰も救われないから。依存とは違う。これに関しては、断言したい。また、マゾ気質なんですか? という話でもない。だって、そんなのいつに始まったことやら。物心ついた頃にはそんな人間関係を好んでいたから。あぁ、こんなことを言ってるとそれなら愛のための物理的暴力も耐えられるのですねなんて思われそうだけど、それとこれとも違う。私が望んでいるのは言葉の暴力だから。
いや、暴力なんていう次元じゃない。なんだろうか、思いやりもあるんだよ。相手なりの。
そういうのが、DVなんですよって言われたら終わりなんだけど。

・neglect(self)
micro harm fragment 
Intermittently self blood

何かを言い表すだけの、必要最低限のパーツ。汚染された場所。
出会いたくはなかったが、必然的であった。回避ルートは、存在しなかった。
人のせいにしても、無駄。そんなことはできない。あり得ない。
壊された組織は元に戻らない。そもそも、やめる気なんてあるのだろうか。回数こそ減ったところで、自己同一性が失われそうで。ただの固執。別にほかのことでもいいんだろうね。記憶は薄れて、体の組織も入れ替わって、触れた組織なんてもうないんだろう。だけど、忘れたくないから、忘れるわけにはいかないから、そんなわがまま。相手は忘れられる権利を行使したがってるんだろうね。
代償行為、でもあるんだよ。そんなことは口が裂けない限りは言わないけどさ。(口語でね)
まぁ、へらへらしとけばいいのさ。真相なんて、いいはしない。生まれながらの、ピエロ気質だから。昔の人間はそういうのは悲しいななんて、ぶつけてきたけど。そんなことももう、昔のことだわ。忘れてしまったわ。

・ no title
漂白された、死骸、抜け殻。脱ぎ捨てられた何か。忘れちまった。何もかも始めからになっちまった。
ここは不衛生な場所ですね。

どこにあるの?

没後19年

 

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昨年は記事を書くことができなかったので今年はちゃんと書こうと思う。昨年はtweetで少し触れただけであったので。以下、去年のtweetである。

 

 

tweetでわかってしまった方もいるだろうが、本日は元祖ネットアイドル南条あや氏の命日である。どんな人物か、というのはネットで名前を検索したらすぐにわかることであるし、過去記事にも書いたので詳しくは触れない。以下2つは自分が過去に書いた記事である。

 

yumecordcore.hatenadiary.jp

yumecordcore.hatenadiary.jp

 

 

毎年、3/30は町の風景を撮ると決めている。(といっても去年はできていない。体調が悪すぎたからだ)年度末であるのも理由の一つではあるが、やはり南条あや氏の影響が大きい。なぜか彼女のことを考えると今一瞬の風景を切り取って、残しておきたいと思うのだ。所属先で一眼レフカメラを借り、私は町に出かけた。今日だけはじっとしていると何か精神に悪影響な気がするのだ。

 

以下、ただの雑記であるがしばしお付き合いいただきたい。(南条あや氏と誰かの話になっている)

 

南条あや氏って、Coccoさんが好きだったなと思い、少しだけカラオケに行った。死の直前に何を歌ってたのかなあとか思いを馳せつつ。南条あや氏のブログがきっかけでCoccoさんの存在を知った。当時、インターネットで検索をかけると「カウントダウン」という曲が上位にあった。初めて曲を聴いた時の驚きは今でも忘れられない。なんて表現をするんだろうか!! という驚きである。この驚きはもう一生ないんじゃないかなという位の話である。それくらい当時の私は驚いた。

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そのあと、なんとなくローソンで食料をポイントで引き換え、昨日買ったお菓子を並べて写真を撮った。甘い飲み物、低カロリー食品……。そうするとヨーグルトかチーズかなとか思いつつ。ちなみに無駄にカップ麺の写真を一眼で撮影した。

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食後、やらなければならない雑務をこなしつつ桜の写真を撮った。いつの間にか周囲は春模様になっていて、時間の進みが早すぎるなんて考えた。懸命に生きたからそう言えるのか、それとも時代から取り残されたからなのか。答えの推測はできているが、このブログには書かない。写真撮影はそれなりに人通りのあるところで行ったので、素早く済ませた。葉桜が桜の形態の中で一番好きだ。

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晩は一人芝居を見に行った。いつ伺ってもよかったのだが、なんとなく人がいる場所に行きたいなと思っていたため今日にした。ネタバレ等の都合で細かいことは書けないが、ずっしりとくる内容であった。

 

そんな1日だった。

 

 

 

歳を通り越してしまって、過去の人になっていって、だけど人々の気持ちの中には生き続けて。何を書きたいのか毎年分からなくなっていって、この記事を上げるのは5万字の小説を書くより困難で、それで去年は断念して。

何を捨て去ったらうまく物語がまわるかなんて、とある人の占いコーナーでとうに分かった話なのに。

 

収拾のつかない物語.

 

ご冥福、とか安らかになんて言葉は難しくて。そういう言葉より、意味の解釈を始めてしまう。

 

どれだけしたら忘れ去ることができるんだろうね?