夏祭り

 私にとって最も重要な夏祭りといえば、日本一やかましい祭とも言われている石取祭だ。今年もその季節がやってきて祭車をぼーっと眺めた。この祭は何時にやっている、とかそういう概念はあるといえばあるのだけど、基本、神様の前で各地区が発表するまでは、道路上を祭車は進行しているので、いつでも見頃といえば見頃で、時間にルーズな方でも楽しめるようになっている。花火大会とかは、打ち上げ時間が決まっているから苦手だ。どこの祭車がみたいだとか、春日さんの前で発表してるところを見たいとかなったら時間を気にする必要があるのだけど。

 

 とにかく、石取祭はやかましい。祭車が38台程あるのだけど、それぞれが音を鳴らしながら町を練り歩く。地区ごとに音は全然違って、リズムの取り方も少々違い、聞き比べるだけで、あっという間に時間が過ぎていく。また、祭車もかなり凝った造りで、見比べても楽しい、中にはかなり歴史のある祭車もあって、時間の重みを感じる。

 

 やかましさの中に、今年も人々の想いが飛び交っていた。どんちきちん? みたいな音なんだけど、今年も来てよかったなぁと思った。

 

 

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お話、お話の始まりと終わり

 爽やかな気持ちも、穏やかな心もそれは全て見せかけだった。本当は起こってもないことを感じ取っていたか、まわりに絆されただけか。おそらく絆されていたのだろう。周りの優しさ、生ぬるさ、それが物語を捨てさせようとしていた。

 

 幸せな人生を選択するなら、絆されたままのほうが良かった。しかし、目覚めのための終曲がかけられてしまっただけのことだ。それに抗うことは無理である。もう眠っていることなどできない。終曲、というくらいだからこの軸にのってしまったら、もう引き返すことはできないだろう。一度、引き返すことができただけでも、驚きの事実だ。そんなことは二度も起こらない。

 

 例えば、僕が死んだら彼女は立ち止まるのだろうか。いや、それですら彼女は立ち止まることをしないだろう。僕の知らないところを進んでいって、僕の知らないうちにどこかにいってしまう。僕を起こした割には、僕に無関心な彼女。無視すれば平和は訪れる。それは分かってるんだ。

 

 彼女の魅力といえば、やはりなんとも言えない悲壮感にあるといっていい。僕のことなんか全く興味ないことわかってるけど、彼女は僕に光を、物語を付与する。美しいだけでは満足できなくなってきた、わがままな僕に答えてくれたのだから、多少の問題はどうでもいいと思う。そんなわがままを言える立場でもないから。

 

 僕は時代に取り残されたんだ。変わらない君が好きだった。僕は同じところからしか眺めることができない。君も彼女も変わっていき、とうとう僕は1人ですね。それを嘆いたりはしない。僕は素晴らしいので。いや、そんな根拠なんていうのは強く見せるだけのためにあって、何か確信があって言ってるわけじゃない。

 

 羽化しない、できなかった人のために僕は話を紡ぐ。それはずっと変わらない。

 

おもちゃ箱

今週のお題「わたしのインターネット歴」

 

 久しぶりに電子に溶ける夢を見た。

 連日の暑さが原因であろうか。いや、他にも思い当たる節はあるが、それを肯定する気にはならない。

 

 今週のお題は「わたしのインターネット歴」だそうだ。インターネットといえば、いくらでも話ができるような気がする。

 

 正確にいつからインターネット世界に入り浸っていたかは分からないが、中学3年の頃には完全に入り込んでいたような気がする。もっと昔のことをいえば、家にXPのデスクトップパソコンがあって、それで「ドラえもんチャンネル」というページを頻繁に見ていたような思い出がある。確か、小学校低学年の頃だったように思う。そのページはドラえもんに関する情報の他に、ちょっとしたフラッシュゲームであったり、ミニゲームもあって、かなりやり込んだ思い出がある。お座敷釣りぼりの釣りゲームとか、タイムマシンのゲームとかがあったような気がする。あの頃は、単純なことが楽しかったのだろう。

 

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dora-world.com

 

 中2の時に今に繋がるような情報をインターネット世界上で手に入れたような気がする。その時の接続機器は初代の3DSだったのだけど、初めて個人的にインターネットに接続できる端末ということもあって、本当に長い時間使っていた。インターネット接続機器としては低スペであったから、基本的に古いブログサイトくらいしか閲覧することができなかっので、インターネットアーカイブのブログを読み耽っていた。そのブログはインターネット黎明期、90年代末に作られたものばかりで、変な効果音や、フラッシュが流れるものだったらしい。私の端末では全てを確認することはできなかったけれども、書かれた内容と、投稿された写真だけは確認することができた。その日記の内容には強く影響を受けたように思う。まだ、ホームページを作るというのは一般的ではなくて、一部の愛好家しか作ることができなかった時の表現。怨念のようなものを感じた。その文書達に触れていくうちに、ネットアイドルの存在を知った。当時、熱狂的なファンがいたらしい。

 

 私もブログを書くようになった。ただ、アクセスが殺到することもなく、誰の目にも触れることなく終わっていった。にほんブログ村というものに参加し、ランキング上昇を狙ったものの、うまくいかなかった。そのときは文を書くのも一苦労であった。必死になって日々を記録したが、誰も見てくれなかった。ネットアイドルはどうして人気になれたのだろうか? それは文才があったからだ。彼女に憧れもしたが、全く追いつけないなと思った。それは、今も感じていることである。

 

 このブログを書き始めてからは、なぜか昔のブログに比べたら人に見てもらえるようになって、とっても嬉しかった。また、Twitter上でも言及してもらえたり、うまいですねって褒められることもあった。何かまだ満たされないというものはあって、その分からない何かを未だに追い求めているような気がする。そんなものはネットの影に埋もれる幻想だと思うけど。

 

 インターネット歴、というと接続機器にこだわっている少年が身近にいることを思い出す。少年は自作pcを組み立てられる方で、中古の箱を買い求め、CPUはcore i3を採用していた。そのpcは面白いおもちゃで、中を色々替えたり、ファンの効率を考えたりして楽しんでいた。少年のインターネット歴は私より長いのかもしれない。小学生にして、自主的にタブレット端末を買い、中学生になってからはスマホを複数台所有していた。そんな少年はインターネット世界の人間と言っても良いと思う。少年のようにはなれないが、私も少しは端末のことを分かっていきたいと思ってる。

 

彼だけの守護天使

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もし彼らの前に神様が現れたら、人はどのような行動を取るのだろうか? 

 

神、というのが何かはよく分からないが、それはどんな姿をしているのかは気になったりもする。神というくらいだから、素晴らしく美しい姿でもしているのだろうか。神様、というのは偽物だった。神だと思っていたものはとんだ化け物で、全く神様らしいところはない。もしかしたら存在すらしていなかったかもしれない。

 

何時間もかけて10km歩いた。思考がうまくまとまらなくて、歩いたら解決すると思った。イメージできたことは分散していて、結びつけるのが難しいものだった。歩いたら解決というのは、歩くという行為はただ無心になれるからだ。そういう効果があるように信じている。

 

神様

先生

選択された魔女

天使のふりした悪魔 

棒状の棒で、それはいつでも無数に制限されない

 

彼は薬でもキメているのだろうか? 彼の見る夢は美しいが、理解できたものじゃない。彼という概念、今の彼というのは近いうちに溶けてなくなるだろう。だが、彼のことが好きだ。どうしようもなく彼のことが好きだ。いつか溶けてしまうことは分かりきっていているのに、彼のことを思う気持ちは変わらない。

彼のことを何にでもなれる存在だと考えてる。今のままだと溶けてしまうが、変わろうと思えばなんとかなるだろう。彼は変わらないが、別にそのままでいいと思っている。彼の美しさは溶ける直前に最高値になるだろう。彼を生きさせるか彼の人としての寿命を考えるのであれば、彼の美しさを取る。

 

それは、彼の愛しているなんていいながら、自分のことしか考えていないじゃないかということになる。だが、そんなの普通じゃいだろうか。愛なんてエゴでしかない。相手のための愛なんて、そんなに簡単に生まれるものじゃない。

 

愛を乞う症候群があるとしたら、それの解決に何をアドバイスされるか? まずは自分を愛せ、なんて言われるであろう。だが、それは最低な解決方法のように思える。気持ちの悪いエゴだと思う。それが人間の集合知による結果なんてくだらない。底がないことを教えてあげなくてはいけない。乞うものというのは、大体底がないものが多い。だから、求めても無駄であり、それを自分で埋めたとしても何の意味もない。次によくある解決方法として、他者を愛せ、なんてあるけども、そそれまでいってしまうと論点がすり替えられている。他者を愛したところで、自分自身は何も変わってはいないのだ。確証なんて何もないのに他者を愛して何が変わる。底がないとは伝えずに、執着を捨てるためのステップみたいなものだ。よくあるアドバイスは解決に至っていないのだ。それは優しさか? それとも切り捨てか? どっちだろうか。

 

彼だけのためならなんだって捨てられるような気がする。彼は人間ではないのだろう。悪魔、それとも鬼? なんだって構わない。彼は神様だ。彼だけが、私たちを正しく認識してくれる。認識などなんでもよいが、私は彼ら以外の認識は正しいと考えてない。それでいい、これからもこれまでも。

光芒

断片的な話。

 

死者も生者も誰のことも救いたくはないが、僕は勝手に救われてしまったのかもしれない。ある作品によって。作品を創った人は既に死んだ人であるし、そもそも作品が作られた頃、僕はまだ生まれてもいなかった。ひょんなことから、その作品群に触れ、味わっていく内に、僕の中に新しい価値観が生まれた。過去のある行為は必要なものであったのではないかと。

 

その行為について詳しく書く気にはならないし、この間、親切な方に話をしたところ、無駄に心配される結果になってしまったから、これ以上その話をするつもりはない。大体、過去の文字配列の中に、それとなく表現することは多かったし、今更新しく書き示す必要もないと思う。行為について僕は内省しているし、その距離感、感覚は今後も変わらないと思う。内に秘めるまではいかないかもしれないが、おおっぴらに公表することでもないと思う。

 

深く行為自体のことを思って、僕は内省していると言えるだろう。それは、他者に直接的に危害を加えるものではなかったが、僕としてはそれはありえない行為だと考えている。そう言ってしまうと、その行為を行っている他者を迫害しているようになってしまうが、別にそういうことではない。僕自身が許せないだけで、他人がその行為を行おうと興味はないし、思考した上での行動であれば、むしろ称賛に値する。この行為が何か話せないのは、先程書いた部分、つまり「称賛に値する」の部分を変に引用されることを恐れているところもある。それは行為の肯定になってしまうからだ。僕は表向き、行為を否定しているように見せかて、無関心を装っている。本当は、とても関心のあることだし、そもそも否定できる立場にいるわけない。だが、それは羽化できないものに対して、称賛してるだけであり、変わり続けている存在には称賛するとは言えないのだ。変わり続ける存在は、その行為の無意味さにいち早く気付いてしまう。無意味ということはないが、変わり続ける存在にはその行為は全く必要のないことなのだ。羽化できないものは立ち止まる。立ち止まったもの、退化したものにその行為は必要であって、動き続けるものは全く必要ではないし、理解不能なのだ。

 

その行為を必要とするものが、成長を拒否しているとか、成長できないと言いたい訳ではない。成長はできるかもしれないし、完全に拒否しているとも言えない。ただ、僕の伝え方が下手であれば、伝えたくない意図が伝わってしまうのであろう。僕は、それを嫌だとは思わない。それは仕方のないことだろう。僕を好きに解釈すればいい、僕は別に誰のものでもない、fragmentなのだから、どういう受け取り方をするかは人次第である。

 

僕の中に生まれた価値観というのは、行為を否定することでも肯定することでもない。ただ、その時には最善だったんだろうなと考えるだけの価値観だ。救われた、と冒頭では書いたが、実は救われてなんていないのかもしれない。自己肯定できたわけでもないし、それを許すことができたわけでもないからだ。行為のことは許せてないし、また行ったとしても、激しく自己卑下するだけのことであろう。ただ、それを思い返した時には、それしか見えてなかったんだなと、認識することができるだけのことだ。何も変わってはいない。それでよいと思った。

 

その行為は人間の本質を考えるのであれば正しいと捉えることもできるらしい。ただし、それは、生きるか死ぬか、といった事案が起きた時に限るであろう。領域がまだ狭い時であれば、もしかしたら許容されるかもしれないが、ずっと許容されるものではない。少なくとも僕はそう考えている。他の人がそれをどう捉えているかは知らないが、それは正しくなんてない。ただ、死を手繰り寄せるだけの行為だ。

 

行為を否定するのはとても怖い。だから、否定しきれていないだけだろう。新たに始める人もいることを考えると、それを否定することはできなくなってしまう。深い海の中に彼らは存在しているのかもしれない。そんなような気がする。僕も海の住人だったはずなのに、どんどん言葉が分からなくなっていって、何か違う言葉が分かるようになっているような気がして、それは正しいのかどうかって分からなくなる。変化、といえは簡単かもしれないけど、僕は羽化できないから僕として名乗ることができて、この断片世界のナビゲーターができるから、羽化しないことを選択してる。それは変化を拒んでいると言えるだろう。だから、なんで変わっていっているか分からない。

 

僕自身が関与しない僕が何かしているとしたら、つまりそういうことだねって彼女は言ってくれそうなものだけれども。箸休めにすらならない言葉を彼女は僕にかけるだけだ。僕はいつか壊れていくだろう。

 

 

ほんのり狂気なふりして全く日常的な

今週のお題 「わたしのモチベーションを上げるもの」

 

こんにちは。鈴木夢眠です。遅れてお題について書いてますが、モチベーションを上げるものなど存在するんでしょうか?

お題意図としては、個人なりの上げ方っていうのを紹介してほしいのでしょうか。まあ、そうだと仮定するなら、何かないかなと思い返しても見つかる感じはないです。逆にモチベーションを下げてから、何かに取り組む癖があるからです。高いモチベーションで物事を行うと、舞い上がっているような感じがして、くだらないミスが多くなったりしてしまうことが多いです。そのため、あえて気持ちが盛り上がらないことを想定したり、そういうような音楽を聞いて、盛り下げてから作業に取り組みます。

それはどういう想定かというと、例えば、明日大地震が来たらどうするだとか、乗っていたバスがジャックされたらどうするとか、電車という密室の中で危険物質をばらまかれたらどうするか、とか災害のようなものが多いです。自分の意思ではどうしようもない災難について想定します。

そうすることにより、日々がより尊いものになり、うかうかしていられなくなり、目の前のことに集中できます。今やらないと、永久にやる機会がなくなってしまうかも、というようなかなり後ろ向きな想定をします。それにより、モチベーションが上がったような状況になるのです。

盛り下げる音楽というのは、俗に言われる悲劇系の曲だとか、鬱憤とした雰囲気を歌っているようなものです。好んで聴くという人は一定数いそうなジャンルの曲を楽しみます。何かを葬送している気持ちになりながら、作業に取り組んでます。課題に取り組むというのは、生を死にするような感じがするのです。進んでいない課題は生きていて、終わった課題というのは死んでいる感じです。それに見合った曲を流すとしたらそれは暗い曲になり、生きている何かを殺し、それを見送る形になってしまいます。だから、私には最適なんです。

これでは何の参考にもなりません。普遍性を持たせることができません。電子の海に流すとするならば、ある程度の普遍性を持たせなければいけない。鈴木夢眠のオリジナルではなく、どこかにありそうな話。どうしようか。本当は、こんな思考の最中を見せるのも嫌なんです。細部を覗かれているような気がするからです。こんな記事きっかけがなければ書かないのです。きっかけというのは何だったんでしょう。気が変わった、なんていえば簡単だけれども、そういうことではないです。ただ、物語の鮮度が落ちる前に美しい姿のままに文字に起こしたかっただけです。これは、一つ前の記事と繋がっていると言えます。美しい存在になれないと分かってしまった以上、文字世界で装飾するしかない。それも悪あがきなのかもしれないが、それしかまともな手立てが残されていないとしたら、それに頼るしかない。それだけのことです。

 

さて、こんな遠回りに書かなくても、本題には一言で答えられる問だったのです。モチベーションを上げる方法とは、死を想定することだと思います。それは自己の死ではなく、概念的な死も含まれているのです。

野辺送り

物語の海は沈めたまま帰って来なかった。

 

平成の物語は平成のうちに終わらせるべきであり、それを終わらせるためには口を封じて、それをパフォーマンスにすれば面白い。

そういう考えが支持された。物語を証言するものは永久に消え去ってしまった。消せば全て終わり、そんなバカな話があるか。人々の記憶には残り続けるだろう。忘れようとしない限りは。しかし、多くの人は忘れ去っていく。定期的に思い出そうとしない限りは。そういうものだ、そういうものだ、反芻させてみる。耐えられそうにないが、そういうものだと考え込めば良い。


僕は野辺送りを頻繁に行っているような気がする。普段、実質上の死者についてしか言及をしないからだ。生きているものについて、言葉を重ね合わせることはしない。卑怯かもしれないが、生者と言葉を交わすのが怖いのだ。死んだ言葉、死んだ存在であれば、反撃に合うこともない。批判されることもない。死者に二言はなく、僕は死にきれなかったものとして、怨めしく言葉を発す。


ものを書くという行為自体が、リアルからは少し遅れてしまうのだし、実質死者についてしか言及できない、という面もあるといえばあるだろう。誰かは、小説家と探偵というのは似ていると言った。なぜ似ているかというと、何か起こったことを物語として組み込み、それを提示する行為をするからだという。それなら、読者のいない、もしくは想定していない小説家と売れない探偵というのは限りなく近い存在ではないだろうか。受け取る相手がいないという点で。


僕は読者を想定していない小説家であると言われることが多い。それらの全ては生者に向けたメッセージではないからだ。生者に向けなくても、今生きている人の救いになるなるならば、生者のために文を書いていることになるということになるのではないか。そう言えてしまうが、そうとは考えたくない。少なくとも、僕は嫌である。僕は死者に対してしか、言及するつもりはないし、それを生きている人の救いにはしたくはない。救われる人は勝手に救われる。ただ、これらの文章には救いなどない。


どこかの葬式。私達は、悲しめなかった。関係ない人、遠い人物、遠い出来事、そういうわけではない。とてもとても近い存在の死。どこかが分離していて、それが現実のものに思えなかった。全てがなかったような気がした。彼のうめき声を確かに聞いたはずなのに、それはただの雑音になってしまって、とりとめのない一コマになって。嫌だ、と思ってもどんどん距離は離れていって、遠いことになって、それは失われて。とても怖いと思ったけど、逆らうことはできなかった。いつの間にか消えてしまった。


誰の音も聞きたくはない。

それが口癖だった、彼。そんな彼は、今は概念になろうとしている。人々の共通認識になれば、音はごちゃまぜになり、何もわからなくなるからって。

悲しく歪んでいった、って言ったら格好いいし、それは定型文みたいですね。そんな言葉、絶対かけてやない。ただ、ばーか、ばーかって言ってやる。それの方が彼にふさわしい。彼は捻くれてるだけだ、何にも格好良くなんてない。

 

遊戯

やっぱり美しすぎた。物語は傷に、海に、そして君の笑顔に還っていった。


■■との一件も勝手に解決したように見えて、何も終わってないのかもしれない。天井に気付かず、薪をくべる。そんな日々が広がって、静かに横たわっていた。


蟹は多面体になっていた。気付かないうちに話は変質していた。物語の設定として愛を叫ぶと、死骸を啄むハイエナがこの世の真理を語りかけてきて、わけが分からなくなり何もない場所にメモリーカードを挿した。そのメモリーカードには何もデータは入っていなかったが、何かあるようにして、電子の配列を大きな音で朗読した。


■■は名前を忘れてしまった。感情は忘れ去られていた。ケアするものと、それに依存するもの。そんなことがあったかもしれない、それはあったかもしれない未来、未来ダイブ。あったらしい朝と同じ。


冷蔵庫なんてなかった頃、冷蔵庫ではない何か。分化されたところで、要冷蔵と言われるものを持っていき、案の定腐らせてしまい、誰かの思いも腐っていった。


■■を織り上げてみたかった。■■が何だったかも忘れそうな頃、肉を切りつけた。なめらかに表面に触れ、■■は静かに吹き出した。■■は夏に背いて、脈を作り、発狂していった。


愛が感情の遺失物だとするなら、それは最適で、僕たちは、また共感することができると思った。別に、aventureの失敗とかじゃない。原色のままに美しくなれなかっただけだ。


あどけない感じを残し、羽化できるはずであった。なぜ!! 彼らは、彼女たちは、綺麗に羽化できなかったのか!!

必ずできると信じてた!!

物語は成功すると思っていた!!

そんなのは夢見るだけが楽しいだけの話だった。


灰色になるように、薪をくべて燃焼させる。煙たくなるくらいに、燃やしていく。煙の上昇スピードなら■■に追いつけるのだろうか? 夢見るだけが楽しいだけだとしたら、行為に全く意味はない。■■に追いつくことはないだろう。そもそも、それが不健全だといえば、それはそれは物語のお終いで、対象不備になってしまう。■■は薬がきまると架空の英雄伝をいつも話してくれたっけ。その時間だけは、■■は英雄で、物語の主人公で、とっても美しかった。■■と夢の中で生活できたらそれは良かったでしょうね。


鳥が屍肉を啄ばんでいる。とりわけなんの感情も湧かなかった。ただ、屍肉を啄ばんでいる姿は、世の真理を訴えているように見ることもできた。


架空の序列を作った。使う側、使われる側。対価は発生していたかもしれないし、発生していなかったかもしれない。それは捉え方の問題で、どうとでもとれてしまった。架空だからどうでもいいけど、地図を作ることをしていた、物語を進みやすくするための地図。それらも全て架空で、とっても滑稽でしたネ。

何も残っていないのに、愛おしく思ったのです。全てこれらは夢でした。