読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

「書くという行為」

学生にとって、ものを書くという行為は嫌な思い出と結びつくことが多いらしい。
例えば、読書感想文や、人権作文。夏休みの宿題として課されることも多いが、苦労した人も多いのではないだろうか。私も、小学生の時は、長文を書くのが苦手だったので、苦労した。しかも、課題本を、エッセイか評論で決めることが多かった。そのため、あらすじを書いて行数を稼ぐこともできず、大変苦痛な作業であった。
また、中学生や高校生になれば、反省文を書いたことがある人もいるだろう。書いたことはないが、人の反省文の手伝いをしたことはある。それは、400字詰め原稿用紙を1枚埋めるだけの作業だったのたが、それは中々大変だった。とりあえず、嘘を並べて埋めた覚えがある。あの作業は苦痛だ。
このようなことから、学生は課題以外で、長文を書くというのは好ましく行為であることが多い。

そのため、何か大量の情報を伝えたい場合、主に口を使って伝達するそうだ。(例外的に口を使って気恥ずかしい時は、文でも伝えることがあるらしい。例えば、何らかしらの暴露とか)

 口で情報を伝達するとなると、伝えた言葉以上の情報が相手に伝わることとなる。例えば、表情や、イントネーション、声の大きさなのだ。これらの要素を複合して、ものを伝えるこことなる。

文字に起こすのが面倒であったり、嫌な記憶に結びつきやすいとしても、口で情報を伝えるのは怖くはないのだろうか。

口で情報を伝えると、書く手間は省けるが、発信者が意図していない伝わり方をすることがある。それは、言葉以外の要素によって。もちろん、文字情報であっても、同じことは言える。それでも、文字情報の場合、相手に伝達する前に、読み返すことは可能だし、わかりにくい表現を避けるように気をつければいいだけの話だ。

しかし、口での情報伝達は違う。会議などで、事前に伝達する内容を考えられることもある。が、多くの場合は、考える時間など数秒しか用意されていないのだ。そういうのは、かなり怖いと思う。取り返しの付かない事態になってしまうのではないかと考えてしまう。

過去にこんな失敗をしたことがあった。

とある会議のことであった。その会議は自分自身のことについて語るというものであった。そのため、私は自分に関わりのある、青年期の若者の行動パターンの1つについて話をした。私は、とある行動パターンに当てはまった人であったし、それについての知識も自信があった。そのため、得意になって、長い尺を使い、その話をした。場にいた、年配の方の様子を見ると、受けは良かったし、満足した気分で会議を終えた。

しかし、ここで私は場にいた若者に対しての配慮を忘れていたのだ。語った内容は、かなり影響力があるものであった。特に、心理的に瀬戸際にいる人にとっては。後から聞いた話によると、私の話を聞いたことによって、心に不調をきたしてしまった人がいたそうだ。受け手自身の元々の問題もあったが、私が要因を引き出してしまったのであった。

 

それ以来、人前で真面目な話をするのがめっきりと怖くなってしまった。私の話を聞いても、影響を受けないだろう相手の前でしか、人前で真面目な話はしない。その他の人の前では道化を演じることが多くなった。道化といっても、やり過ぎない程度に、周囲に合わせるということだが。

私の話に影響を受けないだろう人というのは、以前は身の回りに複数人いた。最近は減少傾向にあるのだが。一人ひとりの負担にさせる訳にもいかないので、控えめに話すようにはしている。ただし、申し訳ないなと思っている。人にまともな話をするたびに、汚染物質の処理に手伝ってくれているのだなと思ってしまう。それは電子の世界の住人に対しても。

私の問題が解決するまで、私は書くという行為を繰り返すのでしょう。