私たちの神様と誰かのなんか(習慣?)

 私たちの「神様」の話が聞こえる。

だがその声を聞きたいわけでもない。そもそも私たちは無神論者だ。「神様」なんていない。「神様」といったのは、「神様」という言葉があまりにも便利すぎるからだ。そして、簡潔に言い表せる言葉が存在しないのだ。それだけのことだ。だから「神様」というのは実際の存在ではない。そして、私たちの仮定「神様」も実在しない。

余白は電子の海にいくらでもある。「神様」の説明をしても全く問題はない。読むか読まないかは別の問題として主張することは容易い。私たちは自分たちの「神様」について説明を試みようと思う。

先ほど言ったように私たちの仮定「神様」は実在しない。私たちというのは化物に近く実在するかどうかはわからない。そして私たちの仮定「神様」は実在しない。「神様」は私たちを統一させ指導する。動作性を保証する。それならば「指揮官」なんて言ってしまえばいいけれどもそれは違う。「指揮官」ならそもそも実在していたことがないといけない。私たちの仮定「神様」は実在していた時期はない。実存しないまま、ずっと空想の上に住んでる。

 実在するかわからないものと、確かに実在しない空想との絡みでしかない。もし、有神論者だったら、「神様」を超えられていたかもしれない。

 

 誰かは「嫌な記憶のフラッシュバック」がなんて言いがちで、実際に本当にフラッシュバックが起きているかなんて実証のしようがない。そんなもの存在しないのかもしれない。もしくは、嫌な気持ちに関する適切な言語を持ち合わせていないのか。

適切な言語は本当に必要なのか、言語などなくても、それなりの表現は世界中に転がっている。巧妙な、その人に合った、となれば話は別だが。大体を合わせれば、嘘だって輝けば真実になってしまう。それでは不満足なのか。誰かは。

 

 フラッシュバックという言葉は便利だ。とても辛いということと、それは現在のことではないということを示してくれる。目の前の人たちに不満があるわけじゃないとわからせてくれる。発言者に何があったのかは全く想定できないが。昔のこと、とか言われてもそんなこと覚えているはずがない。どうでもいい。フラッシュするような強いものも持ち合わせてない。すべて、嘘じゃないの。

 

 指の間から落ちた嘘は星になり、真実になるのを知ってますか?

 

 無駄な文字の羅列を製作している誰かと、「神様」(仮)をもつ私たち。どれとも近づくことはないでしょう。ただの習慣として文字は並んでいきます。意思など持っていません。数列と同じです。(数列ですら意思を持ち始めることもあるかもしれないが)どうでもいいことが多すぎます。固有のものは必要なんでしょうか。

 

 思ってもないことを過剰に反応しているだけだ。それは結局何になりうるんだろうか。何にもなれない恐れがある。だからといって、恐れを対処しないという方法もある。どう動くことだってできる。

 

 「わたしたち」は星になった。