野辺送り

物語の海は沈めたまま帰って来なかった。

 

平成の物語は平成のうちに終わらせるべきであり、それを終わらせるためには口を封じて、それをパフォーマンスにすれば面白い。

そういう考えが支持された。物語を証言するものは永久に消え去ってしまった。消せば全て終わり、そんなバカな話があるか。人々の記憶には残り続けるだろう。忘れようとしない限りは。しかし、多くの人は忘れ去っていく。定期的に思い出そうとしない限りは。そういうものだ、そういうものだ、反芻させてみる。耐えられそうにないが、そういうものだと考え込めば良い。


僕は野辺送りを頻繁に行っているような気がする。普段、実質上の死者についてしか言及をしないからだ。生きているものについて、言葉を重ね合わせることはしない。卑怯かもしれないが、生者と言葉を交わすのが怖いのだ。死んだ言葉、死んだ存在であれば、反撃に合うこともない。批判されることもない。死者に二言はなく、僕は死にきれなかったものとして、怨めしく言葉を発す。


ものを書くという行為自体が、リアルからは少し遅れてしまうのだし、実質死者についてしか言及できない、という面もあるといえばあるだろう。誰かは、小説家と探偵というのは似ていると言った。なぜ似ているかというと、何か起こったことを物語として組み込み、それを提示する行為をするからだという。それなら、読者のいない、もしくは想定していない小説家と売れない探偵というのは限りなく近い存在ではないだろうか。受け取る相手がいないという点で。


僕は読者を想定していない小説家であると言われることが多い。それらの全ては生者に向けたメッセージではないからだ。生者に向けなくても、今生きている人の救いになるなるならば、生者のために文を書いていることになるということになるのではないか。そう言えてしまうが、そうとは考えたくない。少なくとも、僕は嫌である。僕は死者に対してしか、言及するつもりはないし、それを生きている人の救いにはしたくはない。救われる人は勝手に救われる。ただ、これらの文章には救いなどない。


どこかの葬式。私達は、悲しめなかった。関係ない人、遠い人物、遠い出来事、そういうわけではない。とてもとても近い存在の死。どこかが分離していて、それが現実のものに思えなかった。全てがなかったような気がした。彼のうめき声を確かに聞いたはずなのに、それはただの雑音になってしまって、とりとめのない一コマになって。嫌だ、と思ってもどんどん距離は離れていって、遠いことになって、それは失われて。とても怖いと思ったけど、逆らうことはできなかった。いつの間にか消えてしまった。


誰の音も聞きたくはない。

それが口癖だった、彼。そんな彼は、今は概念になろうとしている。人々の共通認識になれば、音はごちゃまぜになり、何もわからなくなるからって。

悲しく歪んでいった、って言ったら格好いいし、それは定型文みたいですね。そんな言葉、絶対かけてやない。ただ、ばーか、ばーかって言ってやる。それの方が彼にふさわしい。彼は捻くれてるだけだ、何にも格好良くなんてない。