歴史は繰り返される

 先日、私は南条あやさんの日記を久し振りに読み返していた。考えることがたくさんあったので、個人的に思った事を記事にしてみる。
 
 南条さんが遺した膨大な日記を分析してみた。会った事もないので、完全なる予想だが、彼女の心はとても細く、そして繊細で美しかったのだろうなと思う。しかし心が美しすぎるのにも不便な点がある。それは繊細に感じられる思考や考えのマイナス部分を吸収し過ぎてしまう点だ。そして自分自身を誤魔化し、かわいがったりする事が不得意だ。
 本当は不得意な所を補ってくれる人が必要なのだが、そう簡単に現れるものではない。彼女は逆に、日記の中で読者を気遣うような素振りさえ見える。彼女の内なる心の叫び、「助けて」ではなく、「私がみんなの事を守るよ。だから安心して」となっている様に見えて仕方がない。
そうすると、私がみんなの事を守ってあげられているという安心を感じる一方で、本当に分かってくれる人はいないのねと、少しずつ絶望の縁へ追いやられていく。
彼女の不得意な所を補ってくれる人がいなかった訳ではないと思うが、繊細すぎる心を支えるのは大変だったのだろう。
 
 私は彼女のようなケースを「生贄」と呼んでいる。本人は苦しくなっていくのに周りの人はそれに気づかず、逆に救われていくからだ。実際彼女は18歳の若さで、1999年3月30日に推定自殺で亡くなってしまった。
 彼女には、このような生き方しか出来なかったんだなと思えばこの話は終わってしまう。しかし、それではあまりに悲し過ぎるではないか。歴史は繰り返される。過去の出来事が現代を守る事に繋がらないのだろうか。だから私は今この記事を書いている。
 
 現在の話。ある女性芸能人が同じルートをたどっていると思うのだ。その人の名前を上げる事は出来ないが、その方はブログ上でお悩み相談を受け付けて、それをブログ上で返信している。読書からの評判は良い。
 風の噂で聞いた話だと、彼女の返信は精神科医の間でも評判がいいようだ。私もyahoo知恵袋にてお悩み相談を回答する事が多いが、彼女の書き方を参考にして書くことが多い。
 ここまで聞くととてもいい話だと思うのだが、彼女自身も問題を抱えている。いくつかの心の病、母親との確執、世間からの批判など。弱い立場にいるからこそ分かる事があり、共感できる事があるのだろうと思うが、私は危ないなと思っている。(危なっかしいから、魅力を感じることもあるのだけど)
 彼女が言うには、心の中を世間に公表するようになってから、気が少し軽くなったらしいが、私はそれでいいのかなと疑問に思う。
 確かに、彼女が心の中を世間に公表するようになってから、救われた人はたくさんいると思う。私もその一人だ。
 でも彼女自身の幸せってなんなんだろうか。それは本人しか分からない。しかし私は「生贄」のパターンに近付いている様な気がしてならないのだ。とても心配である。