光芒

断片的な話。

 

死者も生者も誰のことも救いたくはないが、僕は勝手に救われてしまったのかもしれない。ある作品によって。作品を創った人は既に死んだ人であるし、そもそも作品が作られた頃、僕はまだ生まれてもいなかった。ひょんなことから、その作品群に触れ、味わっていく内に、僕の中に新しい価値観が生まれた。過去のある行為は必要なものであったのではないかと。

 

その行為について詳しく書く気にはならないし、この間、親切な方に話をしたところ、無駄に心配される結果になってしまったから、これ以上その話をするつもりはない。大体、過去の文字配列の中に、それとなく表現することは多かったし、今更新しく書き示す必要もないと思う。行為について僕は内省しているし、その距離感、感覚は今後も変わらないと思う。内に秘めるまではいかないかもしれないが、おおっぴらに公表することでもないと思う。

 

深く行為自体のことを思って、僕は内省していると言えるだろう。それは、他者に直接的に危害を加えるものではなかったが、僕としてはそれはありえない行為だと考えている。そう言ってしまうと、その行為を行っている他者を迫害しているようになってしまうが、別にそういうことではない。僕自身が許せないだけで、他人がその行為を行おうと興味はないし、思考した上での行動であれば、むしろ称賛に値する。この行為が何か話せないのは、先程書いた部分、つまり「称賛に値する」の部分を変に引用されることを恐れているところもある。それは行為の肯定になってしまうからだ。僕は表向き、行為を否定しているように見せかて、無関心を装っている。本当は、とても関心のあることだし、そもそも否定できる立場にいるわけない。だが、それは羽化できないものに対して、称賛してるだけであり、変わり続けている存在には称賛するとは言えないのだ。変わり続ける存在は、その行為の無意味さにいち早く気付いてしまう。無意味ということはないが、変わり続ける存在にはその行為は全く必要のないことなのだ。羽化できないものは立ち止まる。立ち止まったもの、退化したものにその行為は必要であって、動き続けるものは全く必要ではないし、理解不能なのだ。

 

その行為を必要とするものが、成長を拒否しているとか、成長できないと言いたい訳ではない。成長はできるかもしれないし、完全に拒否しているとも言えない。ただ、僕の伝え方が下手であれば、伝えたくない意図が伝わってしまうのであろう。僕は、それを嫌だとは思わない。それは仕方のないことだろう。僕を好きに解釈すればいい、僕は別に誰のものでもない、fragmentなのだから、どういう受け取り方をするかは人次第である。

 

僕の中に生まれた価値観というのは、行為を否定することでも肯定することでもない。ただ、その時には最善だったんだろうなと考えるだけの価値観だ。救われた、と冒頭では書いたが、実は救われてなんていないのかもしれない。自己肯定できたわけでもないし、それを許すことができたわけでもないからだ。行為のことは許せてないし、また行ったとしても、激しく自己卑下するだけのことであろう。ただ、それを思い返した時には、それしか見えてなかったんだなと、認識することができるだけのことだ。何も変わってはいない。それでよいと思った。

 

その行為は人間の本質を考えるのであれば正しいと捉えることもできるらしい。ただし、それは、生きるか死ぬか、といった事案が起きた時に限るであろう。領域がまだ狭い時であれば、もしかしたら許容されるかもしれないが、ずっと許容されるものではない。少なくとも僕はそう考えている。他の人がそれをどう捉えているかは知らないが、それは正しくなんてない。ただ、死を手繰り寄せるだけの行為だ。

 

行為を否定するのはとても怖い。だから、否定しきれていないだけだろう。新たに始める人もいることを考えると、それを否定することはできなくなってしまう。深い海の中に彼らは存在しているのかもしれない。そんなような気がする。僕も海の住人だったはずなのに、どんどん言葉が分からなくなっていって、何か違う言葉が分かるようになっているような気がして、それは正しいのかどうかって分からなくなる。変化、といえは簡単かもしれないけど、僕は羽化できないから僕として名乗ることができて、この断片世界のナビゲーターができるから、羽化しないことを選択してる。それは変化を拒んでいると言えるだろう。だから、なんで変わっていっているか分からない。

 

僕自身が関与しない僕が何かしているとしたら、つまりそういうことだねって彼女は言ってくれそうなものだけれども。箸休めにすらならない言葉を彼女は僕にかけるだけだ。僕はいつか壊れていくだろう。