表出するもの

 言葉を並べて、感情を表現する。ありふれた言葉の羅列で、自分の感情を表すことができる。それが、人間の世界でいう意思表示だ。

 人間には、いろいろな種類がある。
言葉の羅列が少ないが、感情を表現できる人。そもそも、表現することを諦めている人。言葉の羅列を複雑にして、感情を中々読ませてくれない人。
 私は、どのタイプの人間においても愛おしいと思っている。それぞれに、魅力があり、個性がある。人間の魅力にはそこにあるのだ。
 しかし、他の人からみると、毒になってしまうことも多い。羅列が少ない人は、ある意味言葉がストレートということだ。心が弱っている時にストレートに言葉を伝えられてしまえば、それはとても辛い。その人間にとって毒になってしまうし。羅列が複雑になっていれば、読み取れない人間とっては、いらつくだけであろう。あまり、自分を表現しない人間であれば、読みたい人にとってはいらつくだけであろう。
 
 人間が分かり合うのは難しいのかもしれない。人間の存在は、互いに毒だ。

赤いクリスマス

 記憶の彼方にあった、赤いクリスマス。この人物は、今はどうしているのだろうか……。

 ある女の子がいた。現実が満たされていなく、いつも空想の世界へ逃げ込んでいた。その空想の世界では、いつでも彼女はお姫様だった。皆に愛され、可愛がられていた。しかし、現実は違った。人々に虐げられ惨めな生活を送っていた。
 彼女は、空想の世界に入るために、いつも自分を傷付けていた。彼女曰く、傷を創ると空想の世界の住人となれるのだ。傷を1つ創る度に、現実から少しだけ逃れることができた。彼女は体を傷付けて、日常を耐えていた。
 
 ある程度の時間が経った。彼女は、全身傷だらけになっていた。誰も彼女に構わなくなった。虐げられてでも、構われた方がマシだったのだろうか。分からない。辛いのかどうかも分からなくなっていった。
 感覚が、死んでしばらく経った。冬になった。今日は、クリスマス。神は救ってはくれなかった。世界の皆が、幸せな日にこの世を去ろう。最後の空想をして。
 彼女は、今までにないくらいの傷を創った。大きな、切創。どくどくと、大量の血は流れた。赤い世界。
 彼女から、感情が消えた。世界は何も変わらなかった。彼女は死にはしなかったが、無気力に日々を空費している。
 

論理的思考力の化物

 先日、私は進学ハイパー講座というものを受講した。それは、各学校から、進学意欲が高い生徒を集め、国、数、英を勉強をするという企画であった。

 私は成績優秀でもないし、進学意欲が高い訳でもない。しかし、私の友達がその講座を受講したいと言ったので、付き添い感覚でその講座を受講することとなった。
 
 はっきりと言うと、その授業はほとんど理解することができなかった。国語に関しては、理解できるところもあったが、数、英は理解に苦しんだ。特に、数学はできる人物を眺めているような感覚に陥った。
 
 しかし、収穫が無かったわけではない。3教科に共通の要素を見つけたのだ。
それは、「論理的思考」と「読解力」だ。
数学はとても分かりやすいと思う。問を「読解」し、「論理的」に答える。英語であっても、国語であっても基本は変わらない。
恐らく、学校の勉強というのは、その2つの要素を鍛えられるように組み込まれているのだ。
 
 確かに、「論理的思考」と「読解力」はとても大切な要素である。「論理的思考」ができれば、ものごとの理由を説明することができる。「読解力」があれば、ものごとを飲み込むスピードが早まる。ある意味、効率的な人間になれると私は思っている。
 
 しかし、本当にそれだけでいいのだろうか。
 学校の教育はその2つの要素を追い求め、効率だけを考えているように感じてしまう。要領の良い人間が増えれば、社会はとても効率よくまわっていくだろう。
 だが、皆が皆、効率よく動くことは不可能である。
 
落ちこぼれたら、どうするのであろうか? 他の考え方をしてはいけないのだろうか? 誰から見ても、計れる簡単な基準に頼り切っているだけではないだろうか?
 世の人間というのは、分かりやすい要素で人を判断するというのは知っているが、これはあんまりではないか。
 
(追記)
 このようなことを考えていると、社会に適応するのが難しくなってくる。私は、社会の波に飲まれたほうがいいのだろうか。このままだと、標準的に生き辛さを抱え続けることとなってしまいそうだ。もしくは、逸脱的な生活を送ってしまうのも1つの手ではある。社会に適応することを諦めてしまえばよいのだ。答えは出ないままである。
 
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 遠い記憶の中、彼方で。
 
「神」
お父様は、僕に文學の才能をお与えにならなかった
お父様は、僕に藝術の才能をお与えにならなかった
お父様は、僕に何の能力もお与えにならなかった
ただ、存在するだけを望んでいたのでしょうか
しかし、僕は、藝術と文学の世界を創ることにした
僕にしか、創ることが出来ない、僕だけの世界 失ってしまったものを復元するために。
 
「神part2」
お父様は、こんな僕をどう思うのでしょうか。お前は、いらない子だとでも思うのでしょうか。僕はそれでも構いません。僕は、僕自身の理想に生きることにしたのです。
もちろん、僕には才能はありません。
僕自身のことも何も分かりません。
ただ、僕は人間であるということは分かるだけです。
だけど、いつの間にか、僕の心は、綺麗ではなくなっていたのです。
藝術と文学を始めたのは心を浄化するためです。
僕は、何も持っていなかった時代に戻りたい。純粋な僕になりたい。
 
「透明な僕」
お父様は、何故僕をお創りになったのでしょうか。ただの、egoismなのでしょうか。お父様に創られなかったら、僕は透明のままでいられたのに。
 

五月症候群

 5月に入って、10日程が過ぎた。5月と言えば、五月病と言うものがあるそうだ。話によると、以下のような症状らしい。

春(4月)に新しい集団になり、新しいキャラクターを演じる。4月の内はそのキャラになりきることを楽しむのだが、5月の始めのゴールデンウイークを挟み、疲れに気づく。そして、学校や職場に行くのが億劫になる。
  新しい環境で無理をして、疲れるということか。どうやら私はこの症状になってしまった。この春、私は高2になった。目新しいことなど少ないと思う学年なのだが、何故か5月病になった。少し、今年に入ってからのことを思い出してみるとする。
 
 今年、私は表面上の友達というのを初めて作った。去年は気が合う人がいなかったので、あえて友達というのを作らなかった。だから、いつも学校では1人で行動していた。教室移動も昼食も、全て1人で動いていたので、気が楽だった。まぁ、学校を休んだら授業が分からなくなるという問題はあったので、学校は1度も休まなかった。友達がいれば、ノートなどを貸し借り出来るのでそれは便利そうだなと思っていたが。
今年はクラスにアニメ好きの人がおり、その人達と数人のグループを形成した。春の遠足では一緒に行動したり、昼食を誰かと摂る様になった。また、友達が出来たことにより、ノート等の授業の問題は解決した。
 それはとても良かったのだが、やはりあまり親しくもなく、なんとなく一緒にいる関係。気をとても使う。私の詳しい趣味の話をしてしまえば、恐らくドン引きさせる可能性が高いので、本心など言えたものじゃない。とりあえず、精神疾患に関連する話は絶対に話せない。正直言うと、面倒くさい。いや、一緒にいる人たちは悪い人ではない。だけども、疲れる。最近は、朝起きるのが億劫だ。「あー、好きな事だけ出来たらいいのにな」と思ってしまう。
 
 これはどうやら、5月病という症状のようだ。本当に、いちいち毎日学校に行くのが億劫だ。勉強したくても、出来ない人に言ったら怒られそうだが、そう思ってしまったら仕方がない。
 
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少女の記憶

 短歌を始めました。ある少女だったものの記憶。

 
追いかける過去のパネルを心のために追いついた時翼が生える
翼生やし少女は夢を描き始める実現せずに消え失せ泣く
新しい世界ににて少女は歓喜をあげる分からないのに
その場所は暗い世界終わりなき永久の時間光ささない
少女はうごめく影を見ないふりもう少しだけ夢に生きたい
現実を受け入れる時少女は受ける終わりの合図消えはじめる
箱になり少女は世界溶けていくもう誰にも気づかれない
それでもね残った問題記憶の中人々の記憶爪痕残し 
夢の中消えていく夢朝が来る今日は生誕新しい夢

みんなって誰?

 好きなアイドルグループの曲を聞いていた時のこと。普段は曲自体の意味は考えておらず、可愛らしい高音の声に癒されているのだが、その時はたまたまフレーズが頭に残った。

「この先、大丈夫かなぁ〜?」
「みんながいるから大丈夫。楽しいし」
 
 なんて安直な話なんだろうなと思った。しかし、人を安心させるには十分な言葉だ。言葉はすごいなと。
 
 「みんな」と言う言葉はあまり好きではない。例えば、こんな話があるからだ。
「赤信号みんなで渡れば怖くない」
「みんな持ってるから、私も買って」(状況としては親に子どもが、ものをおねだりをするイメージで)
「みんながやっているから、私も同じことをする」
 
 1つ目の話に対しては、「いや、危ないし」とツッコミが入れたくなるし、2つ目の話は、「みんなって、誰?」と聞きたくなる。私が冷静すぎるのだろうか。
 
 だけど、「みんな」という言葉を使うだけで、簡単に楽になれる。思考停止、責任転換。考えることを辞めることが出来る。いろいろな事を考え続けている人間を見た事があるが、世間一般と相当ずれている人だった。自傷癖に、同性愛者で、変わった食の好み(安っぽくてあまり美味しくないいものをあえて食べたいなど)に、BPD的傾向(識者に直接言われたそうだ)。センスのかけらもなく、強すぎる承認欲求。この人は多分この世界で生き辛いのだろう。考え続けるのを辞めるつもりはないそうだが。
 
 普通に生きようと思う時、ある程度の妥協が必要となってくる。その時、「みんな」と言う言葉は大変便利だ。安心を与え、思考停止できる。だけど、それは臭いものに蓋をしただけに過ぎず、根本的な解決になっていない。たまには、ちゃんと考えてもらいたい。だから私は「みんな」と言う言葉が基本的には嫌いだ。
 
 しかし、「みんな」と言う言葉が、完全に嫌いになりきれない。言者が深い不安に覆われていて、自分を勇気づける為に、発したとすれば……。私がこの言葉を否定すれば、その人間は感情行き場を失ってしまうような気がするのだ。それは、私が目標としている傾聴理論に反する。だから、その言葉は嫌いになりきれないところもある。

「人々の記憶」

 最近、遺品整理屋さんの書いた本を読んだ。孤独死とか、自殺とか、生きることについて考えていた。その時、思いついた話。

 

 私はこの世界で、「記憶の箱」になりたい。それはなぜか。人間が生き続けていてほしいからだ。
人間には2回死がある。1回目は、肉体の活動を停止した時。そして2回目は、人々の記憶から消えた時だ。2回目の死は、いつか絶対に来るが、時間を先延ばしにすることは可能だ。家族や、地域の人の記憶に残れば、の話だけど。
 
 有名な人や、家族がいる人なら、その速度は限りなく遅いのだけど、孤独な人は忘れられる速度が早い。私はそんな人がいなくなって欲しいと思っている。本音を言えば、永久に2度目の死を迎えたくないくらいだ。繋がり依存の発言になりかねないが。
 
だから、私はたくさんの感情を覚え続け、それを物語の中で表現したい。それを続けたたら、2度目の死を免れることが出来るかなと。
 
 結局、鈴木はただの寂しがりな人ですね。
 
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