冬支度と移住

生活がある程度落ち着いて1週間が経った。今日ようやく未整理の段ボール箱を開け、荷物の確認作業を終えた。11月から新しい街で暮らすはずだったのに、南に向かったり東に向かったり、家庭のことをしていたらあっという間に月日が経ってしまった。南に向かった時は知を深め、東に向かった時は私の中で解決しなければいけない問題を墓参りを通じて解消した。それは必要なことではあったが、時間がかかりすぎたようにも思える。折り合いをつけるためにはどうしようもなかったのだけれど。

自由を手に入れようとして都に向ったはずなのに、何かうまくいっていないような気がして。この1週間を振り返ってみると、毎日様々な場所の派遣労働に行き、それ以外の時間はひたすら寝ていたように感じる。何が自由なんだろうか。労働を否定するわけではないが、その日の労働先と住居の往復、そして必要最低限の買い出しにいったくらいか。シェアハウスに拠点を移したこともあって、日用品がある程度は揃っているのは助かったが。調理器具がそれなりに揃っていたのもあって。(諸事情で卵焼きを焼くためのフライパンだけは購入したが)

料理が得意なわけではないが、生活費を抑えるためにはせざるを得ない。全ての料理の味付けがめんつゆか醤油、何かを買った時に余った付属品だけで行っているのだが、特に問題を感じていない。美味しさを分析することは得意だが、かといってそこまで食に興味がないことも分かった。

そういえば、南に向かった時のこと。そこではゆるやかな共同生活が行われていて、多少料理をすることがあった。基本的に得意な方が担当されていたのだが、数回だけ得意な人が誰もいない状況に陥り、手際が悪いのを承知で料理をした。その時もめんつゆベースの味付けをしたのだが、若干味が薄かった記憶がある。まあ、失敗というほどでもなかったが。思い切って味付けをするのが苦手だ。それなりの味、というのを一度覚えてしまうと似たようなものばかりを作ってしまう。外食では濃いめの味付けを求めてしまうのだけれども。でも濃いめの味付けを食べた後はいつも多少身体のどこかが痛くなっているような気がする……。娯楽としてはよいのだけれどな。

都町は観光業が盛んなところで、飲食系の派遣業務が特に多いと感じる。以前夏に来たときはあまり仕事がなかったのだが、年の瀬であることと、集団旅行客の客足が戻ったこともあり、毎日どこかで仕事がある。料理の盛り付けをしたり、皿を洗ったり、会場を清掃したり。本当はどこかで雇われるべきではあるのだが、気が進まないのと、移動ばかりしているのもあり固定的な時間で働くことができない。昔所属していたところのように完全に自由シフトであれば問題はないが、未経験でその条件を出してくれるところがそんなに簡単に見つかるとも思えない。とりあえず年明けまではどこも人手不足だろうし問題はないのだが、その後のことを考えると気が重い。ああ、どうしようか。多くの人が企業に所属する歳になったというのにそういう未来が見えない。そもそも20歳以上の年齢になることを想定していなかったのもあるが。

 

幼い頃、△△歳になったら死のうと都度考えていて、定期的に延期し、そんなことはもう考えていないのにその感覚がずっと手元に残っていて。

何度も9歳からやり直せないのかなと考え、それができないことに絶望して。時間は一定方向にしか進まないから。やり直せないのならどのように話を動かせば挽回できるのか、と何度も考えてやはり決定的にどうしようもないことが分かり、それならば区切りの季節に死ぬべきだと思っていた。その時であれば人の縁が途切れやすいし影響も少ないかなと思っていたからだ。でも同時に大学生になりたいという幼い頃からの希望もあって、それを言い訳に計画を延期し続けていた。

9歳という時期に拘っていたのは私の物語が決定的に崩れたと認知した最初の歳だからだ。ある人のせいにしてはいけないのは分かっているのだけれども、ある人の影響により、プランが完全に崩れたと自覚している。思想の方法によっては対抗することもできたはずなのに、うまくいかなくて。6歳の時も同一人物のせいでプランが乱れた、と思ってはいるのだけど、その時は反論する術を持っていなかったから、どうしようもないなとそれは諦めがあって。ある人が2回も物語を乱したことについて、今でも多少思うことはあるのだけれど、当時は恨みに恨みまくっていた。何度も何度も打開策を考え、考える度に絶望していた。そして、無自覚ではあったがあることにおいて一線を越えたのも9歳の秋、図工の授業中だった。あの時にもう修正不可能になっていたのだ。

そんなことを繰り返している内に、本当に大学生になることができたのだが、手に入れた途端冷めたというか、物語の続きを考えることができなくなってしまった。何がしたい、というわけではなくてその身分を得ることだけが希望であり、夢だったのだから。分からなくなって、1年間ほとんど何もせずに過ごした。最初に決まっていたことと、流れで繋がった企画だけは参加していたけれども、それ以外の時間はずっと寝ていた。あることが光をかけてそれを守ることに必死になりすぎていた。

よくわからないうちに5年半の月日が流れ、なぜか大学を卒業することができた。それは今年の9月の事だったのだが、それを報告したいと思える人が何人かいたことに驚いた。単位を取ることが一番大変だった。最後だけは気を振り絞って通っていた。そんなことを言うと、甘えていると言われてしまうのは分かっているのだけど、精一杯だった。学士を修めたからと言って何か変われたわけではないけど、ある人が4年目の時に「絶対卒業しろよな」とかけた言葉がずっと支えになっていたのは事実で。まだ、そのことに対してお礼を言ってないな、とふと思った。来年、その人に会う用事があったな、と。でもその件も相手からの声掛けあってのことで。最悪なことしかしていないはずなのにあったかい人もいるものだなあと思った。

 

派遣業務は様々な時間に募集されているのだが、基本的に夜の勤務しか入れていないので、日によっては自然光を全く感じないまま一日を終えることもある。部屋が窓に面していないので、日中外に出なければ日を浴びることがないのだ。早く起きれば良いのだが、いつもぎりぎりまで眠ってしまい、飛び出すように住居を出る。数か月だけかなりの激務をしていた時を少し思い返す。その時は始発に乗って帰宅していたから、日を浴びることはできたなあと。冬の事だったから寒すぎて足の感覚がいつもあまりなかった。都会なのに雪の日の始発より少し早い時間は外を誰も歩いていなくて、一人傘もささずに駅に向かったっけ。ウイスキー片手に。激務の時代を考えれば大したことはないのだけれど、進んでいる実感もなく与えられた業務をこなす日々はなんだか味気ない。激務時代より時間給は上がっているし、余暇の時間も多いのに。仕事はその時を考えれば明らかに楽だし、サビ残も持ち帰りの業務もないのにな。適正な労働と言えるのになぜかつまらないと感じてしまう。自由な時間に何か書いていればよいはずなのに手はあまり動いていなくて。

窓があれば何かを投げることができたのだろうか? 分からないまま今日も日が沈んでいて。派遣を終え、深夜酒を片手にパソコンに向かう。溢すように日記を書き、作品を作りたいと思ってもなんかうまくいかなくて。次の日の派遣先の確認をしたり、今後の業務を確認したり、よそ事ばかり考えた。これが人生だと言うならば、9歳の時の事なんてどうでもよくて、もともと完成することのできない計画を立てていたということであって。気付くのが遅すぎた。計画自体を見直すべきだったって。ずっと元の計画に戻すことだけを考えていた。でも、計画の立て方なんてわかんないよ、なんて。知っているはずなのにまだ立てたくないなと思ってしまう。動き出すのは今、なのに。年が明けたら進展考えないと……、とぼんやりとした頭で予定を立てた。