トゥシビーと招かれる感覚

写真は既に投稿したのだが、久高島に行った。前々から行こうと計画していたわけでもなく、偶然出会った人から島の存在を聞き、急遽行こうと思ったのだ。島に上陸した日は24歳の誕生日であった。後で知ったのだが、沖縄の御願の中にトゥシビーというものがある。トゥシビー(年祝い)は自分の生まれ年の干支になる度にお祝いと厄除けをしましょうね〜という考え方だ。(ざっくりとしたイメージ)トゥシビーの年に、そして誕生日に偶然久高島に行く、というのはあり得ないと思うのだが、ちょうど日付が変わる頃に話していた人が島をおすすめしたからという理由でなんとなく行ってみたのだ。偶然にしては出来すぎているが、これが偶然で。(そもそも今回の旅行は8割無計画旅行)

久高島はニライカナイに最も近い島と言われている。開闢の祖アマミキヨが天から舞い降りた島と言われていて、琉球は久高島から始まったとされている。そんな神聖な島に招かれた感覚がしたのだ。沖縄のことは大好きではあるけれど、ルーツがあるわけでもないし、ただ内地の人として良い所だなと思い続けていただけで。一方通行的な話であり、別に好かれてはいないと思っていた。しかしこの件は運命があると感じた。アミニズム的な信仰心は多少あるにしても詳しく知っているわけでもないし、ただ外部のものとして興味があるというだけだ。それでも呼んでくださったのはとてつもなく嬉しく感じる。トゥシビーの概念だって島で買ったお土産の説明文を読んでたまたま知った。ニライカナイの話だって、修学旅行で沖縄行った時にタクシーの運転手に詳しく話を聞いたものの、忘れかけていたから。島というよりは海辺に対する感情の方がずっと強かったけれど、それでもよいとなんだか赦されたような気がした。

 

ニライカナイ、神様はずっと遠い場所にいて、東のずっと先にあるという。私が考える海辺の思想もそれに近いところがあって。海辺のずっと先に私の理想はある。かつて交わったことはあるが、今はもう存在しないと思っていて。しかし本当に存在しないとしても、偶然、命運で絡まるということは、存在があったという事実は失われていないなと思う。ニライカナイの考えとして、神様がずっと遠く先にいるとしても、代理人の存在であったり、信仰心を持った生活は続く。だから、私の考える海辺の先の存在しない彼らについても、存在があったという事実が変わらないことが分かれば何も問題ないなと思った。それに気付いていなかった。存在の有無は重要な問題ではなく、思うことが大切なんだ、と島に行って気付くことができた。

 

 

届かない、届かないと思って何かを表現し続けてきたし、届かなくてもよいやとどこか逃げ続けていたように思う。

別の話だが、あることを強く想ってはいるが届くことは考えていなくて。でも、それが届いていると分かった時、とても幸福だと思ったことがあって。一歩通行でもいいや、それが愛だと思っていたけど違ったな。想いが届くことはあるし、それが具現的に発生するかは場合によるけれど、何かしらの事象は発生することがあるんだなと。言語、思想が誰かに届く可能性はあまり考えてこなかった。でも語ることはしたくて発言だけは続けていたけど。届く可能性を受け入れることも愛だと知った。想いが海辺に届き、招かれて。風、大地の優しさを知って。偶然ではない、きっと運命的で。

 

 

あの時のことを帰りの飛行機の中で考える。あの人の歌を添えて。ああ、そもそも沖縄自体に来れたのもあの人の縁であって。ずっと前から1人で沖縄行きたいとは思い続けていたけれど、きっかけがなかった。ライブ、業務、問題の遅れ、3月であるということ。全てが混ざった結果沖縄にようやく行くことができて。あの時よりはどうにかなったかな、いやどうにもなってないけど。でも、縁は強く感じて。それだけで進んでいけそうだと思った。