少女の記憶

 短歌を始めました。ある少女だったものの記憶。

 
追いかける過去のパネルを心のために追いついた時翼が生える
翼生やし少女は夢を描き始める実現せずに消え失せ泣く
新しい世界ににて少女は歓喜をあげる分からないのに
その場所は暗い世界終わりなき永久の時間光ささない
少女はうごめく影を見ないふりもう少しだけ夢に生きたい
現実を受け入れる時少女は受ける終わりの合図消えはじめる
箱になり少女は世界溶けていくもう誰にも気づかれない
それでもね残った問題記憶の中人々の記憶爪痕残し 
夢の中消えていく夢朝が来る今日は生誕新しい夢

みんなって誰?

 好きなアイドルグループの曲を聞いていた時のこと。普段は曲自体の意味は考えておらず、可愛らしい高音の声に癒されているのだが、その時はたまたまフレーズが頭に残った。

「この先、大丈夫かなぁ〜?」
「みんながいるから大丈夫。楽しいし」
 
 なんて安直な話なんだろうなと思った。しかし、人を安心させるには十分な言葉だ。言葉はすごいなと。
 
 「みんな」と言う言葉はあまり好きではない。例えば、こんな話があるからだ。
「赤信号みんなで渡れば怖くない」
「みんな持ってるから、私も買って」(状況としては親に子どもが、ものをおねだりをするイメージで)
「みんながやっているから、私も同じことをする」
 
 1つ目の話に対しては、「いや、危ないし」とツッコミが入れたくなるし、2つ目の話は、「みんなって、誰?」と聞きたくなる。私が冷静すぎるのだろうか。
 
 だけど、「みんな」という言葉を使うだけで、簡単に楽になれる。思考停止、責任転換。考えることを辞めることが出来る。いろいろな事を考え続けている人間を見た事があるが、世間一般と相当ずれている人だった。自傷癖に、同性愛者で、変わった食の好み(安っぽくてあまり美味しくないいものをあえて食べたいなど)に、BPD的傾向(識者に直接言われたそうだ)。センスのかけらもなく、強すぎる承認欲求。この人は多分この世界で生き辛いのだろう。考え続けるのを辞めるつもりはないそうだが。
 
 普通に生きようと思う時、ある程度の妥協が必要となってくる。その時、「みんな」と言う言葉は大変便利だ。安心を与え、思考停止できる。だけど、それは臭いものに蓋をしただけに過ぎず、根本的な解決になっていない。たまには、ちゃんと考えてもらいたい。だから私は「みんな」と言う言葉が基本的には嫌いだ。
 
 しかし、「みんな」と言う言葉が、完全に嫌いになりきれない。言者が深い不安に覆われていて、自分を勇気づける為に、発したとすれば……。私がこの言葉を否定すれば、その人間は感情行き場を失ってしまうような気がするのだ。それは、私が目標としている傾聴理論に反する。だから、その言葉は嫌いになりきれないところもある。

「人々の記憶」

 最近、遺品整理屋さんの書いた本を読んだ。孤独死とか、自殺とか、生きることについて考えていた。その時、思いついた話。

 

 私はこの世界で、「記憶の箱」になりたい。それはなぜか。人間が生き続けていてほしいからだ。
人間には2回死がある。1回目は、肉体の活動を停止した時。そして2回目は、人々の記憶から消えた時だ。2回目の死は、いつか絶対に来るが、時間を先延ばしにすることは可能だ。家族や、地域の人の記憶に残れば、の話だけど。
 
 有名な人や、家族がいる人なら、その速度は限りなく遅いのだけど、孤独な人は忘れられる速度が早い。私はそんな人がいなくなって欲しいと思っている。本音を言えば、永久に2度目の死を迎えたくないくらいだ。繋がり依存の発言になりかねないが。
 
だから、私はたくさんの感情を覚え続け、それを物語の中で表現したい。それを続けたたら、2度目の死を免れることが出来るかなと。
 
 結局、鈴木はただの寂しがりな人ですね。
 
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都会での思考事

  私って都会の濁った空気が好きなのではないか? と思った。
 
 確かに、都会の濁った空気にはいろいろな気持ちが混ざっていて面白い。
排他的なのだけど、人を求めてやまない人間たち。
自分はできると思い込んで、虚構の世界に立つ人間たち。
 
 私はそんな人間が好きだ。それは、自分自身でもあり、私の大切なものでもあるからだ。大切なものを表現することはしないが。
 
 痛々しいところが人間の好きなところだ。他人の傷ついた話はとても好きだし、他人の心理を研究することも好きだ。
 
 結局、私は都会の濁った空気が好きだった。
 

南条あやさん

 今日、3月30日はある人物の命日なのだが分かるだろうか?

 若い世代は知らない人が多いと思うが、今日は南条あやさんの命日だ。彼女は1999年3月30日に亡くなった。18歳の若さで。
 そのような経緯で今日は、南条あや氏の追悼特集をしたいと思う。
 
 南条あや氏とは、1990年代後半のネットアイドルだ。ある女子高生の病んだ日常をブログに綴っていた。オーバードーズに、過激なリストカット。そして、精神科へ通院する話もあった。私は彼女と同世代の人間ではないが、全てのブログ記事を読んだ。1年程ブログをやっていたので、全て読むのに半年くらいかかったが。
当時彼女のブログは大人気で、ファンクラブができる程だった。また、雑誌に記事が載ったり、テレビ出演も果たした。(テレビ放送は彼女の死後となってしまったが)
しかし、16年前の今日彼女は推定自殺で亡くなってしまった。
 
 何が彼女を死に追いやってしまったのか。彼女の日記にこんな話がある。
1999/3/11
私の足元は現在真っ暗。身体が震えます。クスリ、ないと、ダメです。 
4月まで仕事もないですからねぇ。デイケアとか行った方が良かったんでしょうか…。 
いや、私は自分の時間を拘束されるのが大嫌いな野生少女。デイケア行ってもすぐに飽きるはず…。 うーんうーん…。(涙) 
私は焦っているのかも知れません。 
みんな4月になれば専門学校、短大、大学、就職、それぞれの道を歩んで行くのに、 
私だけ、一人取り残されたような。 
ソレも、自分の怠慢のせいで。 
 
 焦りだったのだろうか。4月になると人間は新しい道に進む。しかし、彼女は今でいうフリーターという道を選んだ。学校という箱から追い出され、あらたな箱を見つけられなかった。そしてカラオケボックスという箱の中で亡くなる。
 
 
 なんとも言えない気持ちになるのです。毎年この日になると。来年も再来年も彼女についての記事が書けたらいいな。
 南条さんに影響を受けた人としてのちょっとした話でした。ちょっとしたお供えもの。f:id:YumeCordCore:20150330224108j:plain
 
 関連リンク
考察ブログ
南条あやの保護室

アイデンティティーの確立

  私は日常生活で「アイデンティティーの確立」という単語をよく聞く。私にとってはそれは日常で、何の疑問も持たないのだが、一般的にはあまり使わない言葉らしい。

 ということで私なりの「アイデンティティーの確立」の話をしよう。強引すぎるかもしれないが、一度書いてみたかった記事なのでお付き合い頂けると嬉しい。
 
 まず、辞書的にはどのように説明されているのか。様々な辞書で調べたところだいたいこのような意味だった。
自分が自分であることの根拠を意味し、それを確立するには他者による承認が必須である。
 
 子どもの頃は、周囲の大人たちの言うことに従い、理想の人物の行動をまねていたらそれでよかった。しかし、青年期にはまねをする人を自分で選び直し、自分で自分のあり方や理想を改めて決定し直すことを迫られる。そして周囲の人に新しくなった自己を承認してもらうと、アイデンティティーは確立できる。
  1. 自分がどういう存在であるかということを知る
  2. どのように一貫性を保っていくか自分で決める。
  3. ①と②を他者に認めてもらうこと。
①〜③を全てクリアするとアイデンティティーが確立すると考えている。
 
 しかしこれはかなり唐突な話である。今までは、自分は自分であって、これまでもこれからも着実に人生を歩んでいくと思っていたことなどを急に脅かされるのである。この危機を乗り越えるのは容易ではない。確立できなかったらどうなるのか?説明しよう。
 
 アイデンティティーの確立の対義語はアイデンティティーの拡散だ。それは、自分が何者であるかが見失われ、将来の見通しもつかず、あらゆる役割を拒否する状態だと。
青年期のどろどろした感情はこれが原因なのかもしれない。知り合いの高校生が書いた、作文にこんな一節があった。
 

最近何からも逃げてばかりだ。嫌なことがあると先延ばしにして、逃げて、投げ出す。プライドばかりが高くなっていって、自分の利益だけを考えて動いている気がする。しかし、まわりの人からは優しい、親切だと言われる。その度に何かが心に引っかかる。自分がなんだか分からない‼︎

 
読んでいるとなんだか私も苦しくなってくるのだが、知り合いはこう言うのだ。自分が何者か分かっていなく、迷っているのだ。割と子どもの頃は優等生だったのだろう。だからこのように迷っているのかもしれない。
ただ、彼女には救いがあるように見える。まだ、彼女には感情がある、プライドもある。挫折もあるが、希望はある。きっと成長できる。これはとっても無責任な考えだが。

疑問

 私が闇の世界の底にいた時のこと。

 「世の中には、知るべきではないことがあるのです」と、彼女は言った。私はその言葉を信じずに、たくさんの世界に手を出した。 

 「自分を大切にできない人は、他人を大切にすることはできない」
 使い古された言葉だ。間違ってはいないことが前提となっている。けれども私は、この言葉に納得することができなかった。自分と他人には明らかな差があるに決まっている。だから自分が大嫌いでも他人のことを愛することができるだろうと。それに対してこんな意見があった。自分も一人の他人であるので、自分を大切にしなければいけないと。
 私としてはそれは笑ってしまう。たとえ自分が一人の他人だとしても、自分以外の他人とはやはり扱いが違うでしょうに。最も触れ合う時間が長いものなんだから。
 
 ここまでの意見は自分を基準にして考えたものであった。私は他人を基準にして考えたらどうなのかと思い、考えて見たところ、納得できる答えが見つかった。
 例え話をしよう。ある人が他者に褒められた。自分を大切にできる人間であれば、それを事実として喜んで受け止めるだろう。しかし、自分を大切にできない人間→自己肯定感がないと考えるとその事実を否定するだろう。何故なら自分に自信がないから。
 他人がほめたことを否定する、それが間接的に他者の否定につながる。そうすると、結局他者を大切にできないのだ。
 
 昔の疑問を私は解決した。しかし新たな疑問が生まれた。そもそも私には人間を大切にしたいという欲求があるのだろうか。今までの自分は他者の受け入れだったのでは、ないのだろうか。
 確かに、私は人間が大好きで、大切だと思っている。しかしそれは調査の対象としてということにも取れる。では今まで私は本気で人を助けたいと思っていたし、それのために身を削ったこともあった。しかし私は人間を大切にすることに対して興味がない。
 
 まず、自他を区別しない人を大切にするというのは、人間として当たり前の欲求だと思っている。しかし私の場合、それは人間観察の際、おまけとして出てきた欲求だ。私は一般的なものがないのか。分からない。

歴史は繰り返される

 先日、私は南条あやさんの日記を久し振りに読み返していた。考えることがたくさんあったので、個人的に思った事を記事にしてみる。
 
 南条さんが遺した膨大な日記を分析してみた。会った事もないので、完全なる予想だが、彼女の心はとても細く、そして繊細で美しかったのだろうなと思う。しかし心が美しすぎるのにも不便な点がある。それは繊細に感じられる思考や考えのマイナス部分を吸収し過ぎてしまう点だ。そして自分自身を誤魔化し、かわいがったりする事が不得意だ。
 本当は不得意な所を補ってくれる人が必要なのだが、そう簡単に現れるものではない。彼女は逆に、日記の中で読者を気遣うような素振りさえ見える。彼女の内なる心の叫び、「助けて」ではなく、「私がみんなの事を守るよ。だから安心して」となっている様に見えて仕方がない。
そうすると、私がみんなの事を守ってあげられているという安心を感じる一方で、本当に分かってくれる人はいないのねと、少しずつ絶望の縁へ追いやられていく。
彼女の不得意な所を補ってくれる人がいなかった訳ではないと思うが、繊細すぎる心を支えるのは大変だったのだろう。
 
 私は彼女のようなケースを「生贄」と呼んでいる。本人は苦しくなっていくのに周りの人はそれに気づかず、逆に救われていくからだ。実際彼女は18歳の若さで、1999年3月30日に推定自殺で亡くなってしまった。
 彼女には、このような生き方しか出来なかったんだなと思えばこの話は終わってしまう。しかし、それではあまりに悲し過ぎるではないか。歴史は繰り返される。過去の出来事が現代を守る事に繋がらないのだろうか。だから私は今この記事を書いている。
 
 現在の話。ある女性芸能人が同じルートをたどっていると思うのだ。その人の名前を上げる事は出来ないが、その方はブログ上でお悩み相談を受け付けて、それをブログ上で返信している。読書からの評判は良い。
 風の噂で聞いた話だと、彼女の返信は精神科医の間でも評判がいいようだ。私もyahoo知恵袋にてお悩み相談を回答する事が多いが、彼女の書き方を参考にして書くことが多い。
 ここまで聞くととてもいい話だと思うのだが、彼女自身も問題を抱えている。いくつかの心の病、母親との確執、世間からの批判など。弱い立場にいるからこそ分かる事があり、共感できる事があるのだろうと思うが、私は危ないなと思っている。(危なっかしいから、魅力を感じることもあるのだけど)
 彼女が言うには、心の中を世間に公表するようになってから、気が少し軽くなったらしいが、私はそれでいいのかなと疑問に思う。
 確かに、彼女が心の中を世間に公表するようになってから、救われた人はたくさんいると思う。私もその一人だ。
 でも彼女自身の幸せってなんなんだろうか。それは本人しか分からない。しかし私は「生贄」のパターンに近付いている様な気がしてならないのだ。とても心配である。