自由へ

 あなたは、「自由」を手に入れたいと思うか?
→Yes
→No
 Yesを選んだあなた。(私は選択者を覗き見する)
 確かに一部の人々は「自由」を追い求めているでしょう。実際にほ手に入れることは難しいが、一時的な偽物の「自由」は簡単に手に入るのかもしれない。
しかし、本質的な「自由」を手に入れるのは難しい。どうしたら本質的な自由を手に入れられるのだろうか。
 
寓話
 あるところにAという人物がいた。
Aは「自由」を追い求めていた。Aにとって日常という毎日はひどく退屈であった。Aは新しい1歩を踏み出したかった。表社会で生きるのではなく、アングラ文化の中で輝きたかった。そこで、Aは行動を起こした。
体に小さな刺青を入れたのだ。(専門の業者に依頼して)
 
 日本では、刺青はタブーとされていることが多い。恐らく江戸時代の刑罰のイメージが強いのであろう。
 ただ、その行動が悪いとは一概には言えまい。個人の「自由」であるし、ファッションや芸術としての側面もある。体一面に芸術作品を掲げて持ち歩くと考えるととても美しい気もする。そして、Aはあるコミュニティに受け入れられた。そのコミニュティは、ファッションとしての刺青を受け入れていた。
 そのため、()の中で表した文字が非常に重要になってくる。つまり、そのコミニュティは、痛みを求めるための身体改造を認めてはいなかった。あくまで、芸術としての肉体改造を目指していたのでした。
 しかし、Aは次第に肉体改造の世界の深みにはまっていった。いつの間にか、過激な肉体改造を試みるようになった。そして、最終的に重大な肉体的欠損を起こしてしまったのだ。それは永続的に、ある身体的機能を欠損してしまったことと同意である。Aはその結果に後悔などしていなかった。世間の目は冷ややかであった。コミュニティーからも逸脱してしまった。身体機能を自分から捨てて、不自由にすることはないだろうということだ。
(これは一例であって、特定の人物を批判している訳ではない)
 
 Aは空虚を抱え、何かを求め続けていた。何を求めているのだろうか、分からないし、迷路のようだ。
 「自由」とは、他者の承認なしでは成立しないのではなかろうか。Aは「自由」になりたいと思っていた。周囲の人に認められなければ、「自由」になれない。自分勝手することだけが、「自由」ではない。相手の「自由」も尊重した上で、自分の「自由」を求め続けなければならない。「自由」という問は非常に難しい。

rain day

「梅雨」ー北海道と小笠原諸島を除く日本、朝鮮半島南部、中国の南部から長江流域にかけての沿海部、および台湾など、東アジアの広範囲においてみられる特有の気象現象で、5月から7月にかけて毎年めぐって来る曇りや雨の多い期間のこと。雨季の一種である。
「青」ー基本色名のひとつで、晴れた日の海や瑠璃のような色の総称である。青は英語のblue、外来語のブルーに相当する。寒色のひとつ。また、光の三原色のひとつも青と呼ばれる。国際照明委員会 (CIE) は435.8nm の波長をRGB表色系において青 (B) と規定している。
 
 私は、辞書を閉じた。じめじめとした梅雨の一時、雨宿りという名の時間潰しのために図書室にいた。迎えが来るまで、後30分。どうしようか。宿題をやる気にもなれないし、かと言って本を読む気にもならない。先ほど、気まぐれで辞書を開いて見たものの、興味を引くものはなかった。寝て過ごそうかとも思ったが、まわりで勉強をしている人もいるので、そうもいかない。退屈だ。そして、蒸し暑い。
 
 とりあえず、ペンを手に取った。白い紙に、1本のペン。何を表現することだってできる。
「ペンは武器よりも強し」
 誰かがそんなことを言っていた。確かに、武器を使って殺し合いをするよりも、ペンを使って勉強したり、情報を届けたほうがよい。未来にもつながる。言葉の力は世界だって変えられる。
 
 私はいつから、ペンを使って、どうでもよいことを表現するようになったのだろうな。初めてペンを持ったときは、新しさに満ちていて、書くことがとても楽しかった。手を真っ黒ににして、文字を書いていた。いつの間にか、書くことは求められる作業となり、楽しさなどは無くなっていた。
昔のように書く楽しさを取り戻すにはどうすればいいのだろうか。
答えなんて既に分かっている。斜に構えて格好つけるのをやめて、ありのままを表現すればいいのだ。しかし、それがとても怖い。私の心は私だけのものであるのに、それを他者に公開することになるのだ。私の私のための領域に、他者を土足で上がらせることになるのだ。理解されない可能性だってある。別に、表現することに他者の理解など必要ない。だけど、否定されるのが怖い。
 表現は私を救ってはくれないだろう。それでも希望を見い出してしまう。縋りたいだけなのだろうか。人は何かに依存していかないと生きていけないと聞く。どうやら私は生きることに不器用だ。表現することが苦しいと分かっているのに、表現することから離れられない。私は表現に依存しているのだろう。私を救ってくれるわけでもないのに。
 
 携帯が不意に光った。どうやら迎えの知らせのようだ。こんなことは捨ててしまいたい。家に帰ったらきれいさっぱり分からなくなりたい。そんなの嘘。捨てることなんて、できない。私の心を縛り付けている。

南条あやさんの話

 お久しぶりです。今年も、南条あやさんの話をしたい。去年も同じ日に記事を書いた。私の中ではまだまだ風化していないことなのだ。

 
☆南条あやさんとは
Wikipediaより引用
南条 あや(なんじょう あや、HN(ハンドルネーム)1980年8月13日 - 1999年3月30日)は、日本のメンタルヘルス系ネットアイドル、フリーライター。
高校3年生の頃に町田あかね(薬事ライター)のウェブサイト「町田あかねのおクスリ研究所」(現在閉鎖)上に「精神病と向精神薬に関する体験談募集」に対してメールを送ったところ、その文才が評価されたことから1998年5月28日〜1999年3月17日まで日々を綴った日記を公開し始める。心に病を抱えた内容を吐露した日記は同好の士を中心に多くの人々から支持を集め、ファンクラブも結成されるまでに至る。
しかし、卒業式を終えて20日後の1999年3月30日正午ごろ、一人でカラオケボックスに入店し、その後3時間の間に向精神薬を大量に服用し昏睡状態で病院に搬送される。蘇生処置をするが、その後死亡。まだ18歳の若さだった。しかし、本人は薬物にたいしての知識が十分あり、服用した薬も致死量には満たなかった。そのため、本人に明確な死の意思があったかは不明。未だに推定自殺とされているが、司法解剖の結果、日常的に繰り返した自傷行為により、心臓の弁に穴が空いていたことが結果としての死因に結びついた。
 
簡単に説明すると、ネットアイドルで、ブログを書いていた人ということだ。そして今日、3月30日が命日なのだ。17年も経っているのだな。
 
☆現代的に考える
南条あやさんが、今の時代に生まれていたらどうだったのだろうと考えてみた
 
恐らく、ブログに心境を綴るなんていうことはしない。生主や、キャス主など配信する人になっているだろう。一定数のフォロワーを得ることができるだろう。配信する人になっていなければ、有名ツイッタラーにでもなっているだろうか。
どれにしても、形跡は残りにくい。何年経っても語り継がれるということは無いのだろうな。インターネット黎明期に産まれた、時代のアイドルということなのだろうな。
 
 
☆影響を受けたものたち1
最近、あるライターの話を聞く。北条かやさんだ。名前が似ているなぁと思ったら、影響を受けている趣旨の話を見つけた。そして、彼女は最近ネット上で叩かれている。炎上の理由は複雑であるし、ここでの趣旨にそれるので説明しないが、とにかく叩かれている。皮肉にも、今日この日に騒動が大きくなっている。
 
とても、複雑な気持ちになる。
 
 
☆影響を受けたものたち2
アーバンギャルドというグループの「平成死亡遊戯」という曲がある。南条あやさんのことを想像した曲になっている。
聞いて見たのだが、とても良くできた曲だ。彼らは人々を惹きつける、何かをもっているのだろうか。
 
 
☆鈴木の書きたいこと
私は、毎年この日がやってくると、不思議な気分になる。私は、南条あやさんの存在を中学生の時に知った。当時、私は自傷行為を始めたばかりであった。そんな時に、彼女の文才に触れた。既に故人であったが、とても惹きつけられた。そして、全ての日記を読んだ。驚いた。病んだ話を、コミカルに危うげに書ける人がいるんだなぁと。私も影響を受け、世でいうメンヘラ系のブログを始めた。しかし、彼女の足元にも及ばないブログであった。(現在は削除されている)人気がなかったのだ。
だから、私はブログを書くことを諦め、小説の世界に足を踏み入れたのだ。(小説の世界でも受け入れられているかどうかは不明だが)
ということがあり、私は彼女にとても影響を受けたのだなぁと思う。文書を書こうと思ったのは、彼女のブログを読んだからだ。だから、彼女の命日がやってくると、不思議な気分になるのだ。写真は個人的な弔い。
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桜の咲く季節。桜の写真を撮った。
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☆昨年の記事
 
 
 来年もこの話ができますように。

I miss you

 遠い昔に失った人の話。彼にもう一度会えないかな。

 彼は人前に出るのは向いていない人間だった。彼は、他の人より精神的持久走がなく、闇の世界に逃げ込む癖があった。また、体も丈夫な方ではなかった。
 そのため彼は戯け者を演じ、何も分からないようにして、何も感じないように、自我は胸の奥に息を潜め、それなりな生活を送っていた。
たった、それだけのことかと思われそうだが、彼にはそのことをさも重大問題のように考えていた。
 
 彼はある時、「人権」という活動に出会った。そこで、彼は自分のことを話していいということを学んだ。そして隠れていた自我が現れ、彼が放棄していた、人間らしい生活を送れるようになった。
 彼はようやく普通で人間的な生活を送れるようになった。人権に出会わなかったら、一生この楽しさは味わえなかっただろう。「人権」は彼の人間らしさの実現を助けてくれた。
 だから彼は「人権」には仕事だと思って、敬意を払ったほうが良いと思っている。また、彼にとって「人権」は償いでもある。人間らしい生活を送ることと引き換えに、彼は闇の世界での、契約、友人を放置してきた。彼の心の中にはまだ、たくさんの闇の世界の住人が住んでいる。また、契約を振りかざす住人もいる。それは彼にとって大事な時にいつも襲ってくる……。
 
 そもそも、いつから闇の世界の住人が彼の中に住んでいるのか。それは確か小学生の頃からだ。当時、彼はストレスに耐え切れなくなった。そこで人生は終了するはずだったが、それでも彼は生き延びたいと思った。そこで、猶予をもらい、代償として感情の一部を捨てた……。それから闇の世界の住人が心の中に住んでいる気がする。
それは彼の2番目の罪。1番目の罪とは生まれてくること。2番目の罪は闇との契約だ。「人権」の活動を頑張れば、その心の中に住んでいる闇の住人も救われると思っている。だから彼にとって「人権」は贖罪なのかな。彼の求めている人間らしい生活は分からないままだ。確かにここにあったはずなのに、泡のように消えたりする。怖いな。なんとなくだけど。
 彼はこの少し変わった生活を否定はしない。彼の人生はおかしな部分が多い。彼はそこで「もの書き」という生き様を手に入れた。彼は、人間の醜い生き様、崩壊していく様を、記録することができる。それは狂気である。彼が世界に残せる、唯一の世界に対する挑戦状なのだ。
 狂っていると言われても結構。彼はそんな生き方しかできない。これが本当に狂っている人間なのかもしれない。笑える。もう笑いしかない。こんな人間を必要としてくれる人なんて少ないでしょう。いたとしても、それはただの変人だよ。そんな闇を心に抱えていたら、普通の生活はできないだろうしな。

表出するもの

 言葉を並べて、感情を表現する。ありふれた言葉の羅列で、自分の感情を表すことができる。それが、人間の世界でいう意思表示だ。

 人間には、いろいろな種類がある。
言葉の羅列が少ないが、感情を表現できる人。そもそも、表現することを諦めている人。言葉の羅列を複雑にして、感情を中々読ませてくれない人。
 私は、どのタイプの人間においても愛おしいと思っている。それぞれに、魅力があり、個性がある。人間の魅力にはそこにあるのだ。
 しかし、他の人からみると、毒になってしまうことも多い。羅列が少ない人は、ある意味言葉がストレートということだ。心が弱っている時にストレートに言葉を伝えられてしまえば、それはとても辛い。その人間にとって毒になってしまうし。羅列が複雑になっていれば、読み取れない人間とっては、いらつくだけであろう。あまり、自分を表現しない人間であれば、読みたい人にとってはいらつくだけであろう。
 
 人間が分かり合うのは難しいのかもしれない。人間の存在は、互いに毒だ。

赤いクリスマス

 記憶の彼方にあった、赤いクリスマス。この人物は、今はどうしているのだろうか……。

 ある女の子がいた。現実が満たされていなく、いつも空想の世界へ逃げ込んでいた。その空想の世界では、いつでも彼女はお姫様だった。皆に愛され、可愛がられていた。しかし、現実は違った。人々に虐げられ惨めな生活を送っていた。
 彼女は、空想の世界に入るために、いつも自分を傷付けていた。彼女曰く、傷を創ると空想の世界の住人となれるのだ。傷を1つ創る度に、現実から少しだけ逃れることができた。彼女は体を傷付けて、日常を耐えていた。
 
 ある程度の時間が経った。彼女は、全身傷だらけになっていた。誰も彼女に構わなくなった。虐げられてでも、構われた方がマシだったのだろうか。分からない。辛いのかどうかも分からなくなっていった。
 感覚が、死んでしばらく経った。冬になった。今日は、クリスマス。神は救ってはくれなかった。世界の皆が、幸せな日にこの世を去ろう。最後の空想をして。
 彼女は、今までにないくらいの傷を創った。大きな、切創。どくどくと、大量の血は流れた。赤い世界。
 彼女から、感情が消えた。世界は何も変わらなかった。彼女は死にはしなかったが、無気力に日々を空費している。
 

論理的思考力の化物

 先日、私は進学ハイパー講座というものを受講した。それは、各学校から、進学意欲が高い生徒を集め、国、数、英を勉強をするという企画であった。

 私は成績優秀でもないし、進学意欲が高い訳でもない。しかし、私の友達がその講座を受講したいと言ったので、付き添い感覚でその講座を受講することとなった。
 
 はっきりと言うと、その授業はほとんど理解することができなかった。国語に関しては、理解できるところもあったが、数、英は理解に苦しんだ。特に、数学はできる人物を眺めているような感覚に陥った。
 
 しかし、収穫が無かったわけではない。3教科に共通の要素を見つけたのだ。
それは、「論理的思考」と「読解力」だ。
数学はとても分かりやすいと思う。問を「読解」し、「論理的」に答える。英語であっても、国語であっても基本は変わらない。
恐らく、学校の勉強というのは、その2つの要素を鍛えられるように組み込まれているのだ。
 
 確かに、「論理的思考」と「読解力」はとても大切な要素である。「論理的思考」ができれば、ものごとの理由を説明することができる。「読解力」があれば、ものごとを飲み込むスピードが早まる。ある意味、効率的な人間になれると私は思っている。
 
 しかし、本当にそれだけでいいのだろうか。
 学校の教育はその2つの要素を追い求め、効率だけを考えているように感じてしまう。要領の良い人間が増えれば、社会はとても効率よくまわっていくだろう。
 だが、皆が皆、効率よく動くことは不可能である。
 
落ちこぼれたら、どうするのであろうか? 他の考え方をしてはいけないのだろうか? 誰から見ても、計れる簡単な基準に頼り切っているだけではないだろうか?
 世の人間というのは、分かりやすい要素で人を判断するというのは知っているが、これはあんまりではないか。
 
(追記)
 このようなことを考えていると、社会に適応するのが難しくなってくる。私は、社会の波に飲まれたほうがいいのだろうか。このままだと、標準的に生き辛さを抱え続けることとなってしまいそうだ。もしくは、逸脱的な生活を送ってしまうのも1つの手ではある。社会に適応することを諦めてしまえばよいのだ。答えは出ないままである。
 
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 遠い記憶の中、彼方で。
 
「神」
お父様は、僕に文學の才能をお与えにならなかった
お父様は、僕に藝術の才能をお与えにならなかった
お父様は、僕に何の能力もお与えにならなかった
ただ、存在するだけを望んでいたのでしょうか
しかし、僕は、藝術と文学の世界を創ることにした
僕にしか、創ることが出来ない、僕だけの世界 失ってしまったものを復元するために。
 
「神part2」
お父様は、こんな僕をどう思うのでしょうか。お前は、いらない子だとでも思うのでしょうか。僕はそれでも構いません。僕は、僕自身の理想に生きることにしたのです。
もちろん、僕には才能はありません。
僕自身のことも何も分かりません。
ただ、僕は人間であるということは分かるだけです。
だけど、いつの間にか、僕の心は、綺麗ではなくなっていたのです。
藝術と文学を始めたのは心を浄化するためです。
僕は、何も持っていなかった時代に戻りたい。純粋な僕になりたい。
 
「透明な僕」
お父様は、何故僕をお創りになったのでしょうか。ただの、egoismなのでしょうか。お父様に創られなかったら、僕は透明のままでいられたのに。