「受容」

いつか、いつの日か私のことを丸ごと受け入れてくれる人が現れるかもしれない。そんなことを昔は考えていたものだが、そんな人など存在しない。

では、私自身は、誰かを丸ごとに受け入れたことがあっただろうか。許容と理解なら、あり得るが、受け入れたことはない。
このようなことから、人から丸ごと受け入れられることなんて、不可能であるのだ。

それでも、かつては存在していた。それは、羊水である。生まれる前の、独立していない存在であれば、丸ごと受け入れられているのではないだろうか。もう、戻ることなどできもしないけど。

そもそも、人に受け入れられるというのはそんなに必要であるのだろうか。別に、人から受け入れられなかったとしても、それによって、肉体的な死を迎えることなどないのだ。人から受け入れられるというのは、人にとって、付加要素である。
確かに、誰かから受け入れられることによって、人の精神は安定する。居場所ができたような気もするし、なんだか、なんでもできるような気がしてくるのだ。ただし、受け入れられると、丸ごと受け入れられるは別物である。相手に、多少興味を持ってもらって、僅かな理解だけで、安心した空間は作り出される。そのため、別に丸ごと受け入れられる必要などないのだ。別に、安心した空間だって無理して作る必要もない。必要最低限の他者との交流ができれば、社会的な死は避けられる。

丸ごと受け入れられるなんて、幻想でしかない。だからと言って、想像しないことはない。現れる訳ないけど、現れたらいいなって。その辺にもまだすきがあるというのかな。