彼らはいつかは光り輝くだろうし、私はもう大丈夫だから

年度末、埋められたものがまた新しく切り替わるための準備期間。数字としては、年末年始というのも切り替わったといえるが、3月から4月になる方が今のことから別のものに移動している感じがする。年度末に考えることが多くなったのはいつ頃からだろうか。子どもの頃はこの時期になると春休みが来て嬉しいと思っていたし、クラス替えも別にそういうものだと行事だと思って、特に何にも考えることがなかったのに。小学3年生の春休み、というのはとてもわくわくしていた記憶がある。4月から4年生になることができて、ようやく高学年の仲間入りだと。早く小学校を卒業したいと思っていたし、当時から中学も高校もいいから早く大学生になりたいと思っていた。大学生になることはできたが、そんなに昔から憧れるほどのことでもなかったと思う。確かに今が1番楽しいというのは事実ではあるが。高校が嫌すぎてこれは懲役3年だなと本気で思っていた。それを知り合いに相談したら、結婚した時にこれは終身刑だなぁと思った、なんてもっと次元の違うことを言われたことはよく覚えている。まあ、今考えれば結婚が終身刑だ、という考え方は理解できなくもないが。結婚は人生の墓場だという人もいるし。


年度の変わり目の季節、複雑な思いになるのは彼女の死を知ってしまったからだと思っている。年度を超えられなかった彼女。年度を超えている私たち。以前、2回だけ年度を超えることをやめようと思ったが、そんなにうまくいくものではなかった。失敗するということは他者から見たら興味のない物語が境界に積み重なっていだけだ。しかし今更終えることは年度途中、何も美しくない。あー、もうそのまま走るしかない、と例年この季節になると思ってしまう。

彼女がどのような思想でそれを行ったかは知る由もないけれども。


年度末の街を眺めていこう、なんてぼんやりと言っていたら、人類は再び脅威に脅かされていた。人類は今回は立ち向かうことができるのだろうか。分からない。成熟されたものは一度破壊しないといけない、なんて昔言われたことがある。それを言っていたのは誰だったかな。どうやら、その人たちは物事を悲観的に考えることが好きなようで。本当は立ち向かわないといけないのだろうけど、言葉を発することは難しくて。何か言ったら変わるなんて思っていた時代もあったことを思い返す。いつから変わってしまったのだろうか。どんどん穢れていくことが分かる。庭だけでも美しく保ちたかったのに、生活が斜めになっていく過程で、庭を守ることも難しくなっていって。だから、言葉を発さなければいけないのに、何を主張したらいいのかも分からない。彼ならどうやって主張するのか、考えるのか? 物語を紡ぐ才能が彼にはある。憧れと好きは混ざり合ってしまうし、街の恐慌とか関係なく前から間違っているのに恐慌を言い訳に予定を崩した。


過度に恐れること、大概の人は死にたくないから行動を取るらしい。どうもその感覚が分からない。積極的に死を望むことはしないとしても、かといって固執する気はない。腐ってしまったら匂いが分からない。いつから腐ってしまったのだろうか。ただ、自分だけが朽ちていくのは難しいことだなと思う。他の生きたいと思っている人たちとも折り合いをつけなければいけない。生きてるだけで絶対何かしらの迷惑がかかると、仲の良い活動家が言っていたことを思い出す。生かさず殺さずのような感覚に浸り。日々は半殺しになっていて。という言い訳を繰り返して。