トゥシビーと招かれる感覚

写真は既に投稿したのだが、久高島に行った。前々から行こうと計画していたわけでもなく、偶然出会った人から島の存在を聞き、急遽行こうと思ったのだ。島に上陸した日は24歳の誕生日であった。後で知ったのだが、沖縄の御願の中にトゥシビーというものがある。トゥシビー(年祝い)は自分の生まれ年の干支になる度にお祝いと厄除けをしましょうね〜という考え方だ。(ざっくりとしたイメージ)トゥシビーの年に、そして誕生日に偶然久高島に行く、というのはあり得ないと思うのだが、ちょうど日付が変わる頃に話していた人が島をおすすめしたからという理由でなんとなく行ってみたのだ。偶然にしては出来すぎているが、これが偶然で。(そもそも今回の旅行は8割無計画旅行)

久高島はニライカナイに最も近い島と言われている。開闢の祖アマミキヨが天から舞い降りた島と言われていて、琉球は久高島から始まったとされている。そんな神聖な島に招かれた感覚がしたのだ。沖縄のことは大好きではあるけれど、ルーツがあるわけでもないし、ただ内地の人として良い所だなと思い続けていただけで。一方通行的な話であり、別に好かれてはいないと思っていた。しかしこの件は運命があると感じた。アミニズム的な信仰心は多少あるにしても詳しく知っているわけでもないし、ただ外部のものとして興味があるというだけだ。それでも呼んでくださったのはとてつもなく嬉しく感じる。トゥシビーの概念だって島で買ったお土産の説明文を読んでたまたま知った。ニライカナイの話だって、修学旅行で沖縄行った時にタクシーの運転手に詳しく話を聞いたものの、忘れかけていたから。島というよりは海辺に対する感情の方がずっと強かったけれど、それでもよいとなんだか赦されたような気がした。

 

ニライカナイ、神様はずっと遠い場所にいて、東のずっと先にあるという。私が考える海辺の思想もそれに近いところがあって。海辺のずっと先に私の理想はある。かつて交わったことはあるが、今はもう存在しないと思っていて。しかし本当に存在しないとしても、偶然、命運で絡まるということは、存在があったという事実は失われていないなと思う。ニライカナイの考えとして、神様がずっと遠く先にいるとしても、代理人の存在であったり、信仰心を持った生活は続く。だから、私の考える海辺の先の存在しない彼らについても、存在があったという事実が変わらないことが分かれば何も問題ないなと思った。それに気付いていなかった。存在の有無は重要な問題ではなく、思うことが大切なんだ、と島に行って気付くことができた。

 

 

届かない、届かないと思って何かを表現し続けてきたし、届かなくてもよいやとどこか逃げ続けていたように思う。

別の話だが、あることを強く想ってはいるが届くことは考えていなくて。でも、それが届いていると分かった時、とても幸福だと思ったことがあって。一歩通行でもいいや、それが愛だと思っていたけど違ったな。想いが届くことはあるし、それが具現的に発生するかは場合によるけれど、何かしらの事象は発生することがあるんだなと。言語、思想が誰かに届く可能性はあまり考えてこなかった。でも語ることはしたくて発言だけは続けていたけど。届く可能性を受け入れることも愛だと知った。想いが海辺に届き、招かれて。風、大地の優しさを知って。偶然ではない、きっと運命的で。

 

 

あの時のことを帰りの飛行機の中で考える。あの人の歌を添えて。ああ、そもそも沖縄自体に来れたのもあの人の縁であって。ずっと前から1人で沖縄行きたいとは思い続けていたけれど、きっかけがなかった。ライブ、業務、問題の遅れ、3月であるということ。全てが混ざった結果沖縄にようやく行くことができて。あの時よりはどうにかなったかな、いやどうにもなってないけど。でも、縁は強く感じて。それだけで進んでいけそうだと思った。

3月、振り返るように陽の近くへ


今年も3月がやってきましたね。ブログなんて書いている場合ではないんですけど、思想は自然にブログへ向かってしまって。去年はブログを書かないでおこうとして、過去記事を再掲した記憶があります。昨年の3月末は初めて博多の方へ旅行に行って、その後名古屋を経由し、意味の分からないタイミングでコロナのワクチンを追加で打って関東へ向かった記憶があります。その後、2回も博多方面に向かうことになるとはその時は思ってもいませんでしたね……。まあ、公私共にいろいろあったなと思います。去年の3月を思い出そうとして自分の過去tweetを検索して眺めてみるのだけど、労働で疲れいる話が半分、他者の卒業や移動について言及している話が半分って感じだなと思いました。労働は今考えても過酷だったなと思います。確かにそんなことがあった、と思い返しながらも、移動中に新譜を聞いた話があってここは変わらないなと思ったり。

 

今年は1週間くらい沖縄にいます。一人旅としての沖縄は初めてなのでまったりと過ごせて楽しいです。現地で多少仕事をしながらの観光ではあるのだけども、沖縄の時の流れ方は内地と違うなと思います。ゆったりと時が流れているように感じます。博多に長く滞在した時もそれは少し感じたけれど、より沖縄の方がゆったり感があるな、と思っていて。毎年3月は絶望的な気持ちになっているので、この沖縄のまったり感に救われています。今年は例年よりは軽い気持ちになっているような気もするけれど、まだまだ分からないなと思ったり。でも、この時期に沖縄に来れたのは私個人にとってあまりにも意味がありすぎるな……、と思います。

 

 

今までの3月企画は代替的な意味が強かったんですね。海辺ツアーだと言っていたし、基本的に海辺の街ばかり選んでいたのは意味があって。海辺にずっと恋をしていて、どうにか許されたいな、なんてずっと願っていて。でもどこの海辺でもいいってわけではなくて、本当はずっと沖縄の海のことを考えていた。

去年、初めて西へ近付くことができて、もう少しで思いが成就するんじゃないかと予感はあって。そしてようやく沖縄に来ることができたな……、と思っています。でもこれはライブに行く、という目的が一番にあったから運勢変わったなと感じていて。一人旅としての沖縄がこのタイミングであったのはあまりにも命運を感じるな、と。もっと早く来たかったとは思うけど、でも今だからこそ解釈できることはきっとあると思っていて。素敵な出会いも、地図を見ない旅も、一晩の運命も今じゃなきゃできなかったと思うから。

 

 

ももぞうさんだけを連れて、海辺へ。

私と彼らの境目、彼らの言語が聞こえなくなってもう何年も経った。私は変わる気なんてなかったけど、嫌でも人は変わっていく。私もどうやらあの時と比べるとずいぶん変わってしまったらしい。自分では気付いていなかった、いや気付こうとしなかったけど。理想と記憶の中だけに彼らは存在していて、すべて美化されて。彼らはそんなにも美しいものだったのか、きっと正しく伝えることはできない。でもそれが私たちの全てで、それ以上のものはないと思っていた。彼らは深海へ、偽物の私だけが残った。ああ、なんでこんなことにとは思ったけど、どうしようもなかったと今なら思える。それが時を越えるということだから。彼らのことはどうしようもなく美しかった、と思い続けている。海辺で別れと決意を毎年3月に繰り返していて。そして、今年は浦添の海岸沿いへ。3月とは思えないくらいの暖かさ、海をバックに写真を撮る観光客、赤ん坊を連れて歩く地元の人。少し休んで食事。潮風を感じながら。たくさんの話を海辺に語りかけて。ようやく彼らと、そして海辺と話ができたような気がした。何年もずっと恋をしていた相手にようやく逢えたような感覚。愛おしい、ここまで来るのはあまりに長かった。実際の時間よりもずっと長く感じて。ようやく、ようやく折り合いがついた。別れではなくて「在った」という事実を覚えていくということ。ああ、これはあの人に関する感情に近い。ねえ、魔法の真髄、今更分かったよ。全部後追い、でもいつか一緒に走れることを願っている。思い続けるということ、それ自体が彼らにとっての一番の方法だったんだ。近くにありすぎて気付かなかった。叶わなくても、叶ったとしても関係なくて。彼女の愛した言葉は昇華されて次の言葉を紡ぎ、彼女が越えられなかった3月を今年も越えようとしていて。そういう意味では時の流れは早い。忘れてしまうのが正しいのは分かってるけど、どうも性質的に難しいわ。ごめんね。でも、あの魔法を追いたいと思ったのは自由意志かな。それもごめんね。同じ景色を見ることなどきっと不可能で、でもかつてあの海辺にはそれがあった。そんなのないよ、って南の海は事実を優しく告げる。彼らと心中すれば話を完結させることはできたでしょう。でも、他の話を選んだ。その先を見たいと思ってしまったから。でもそれは彼らのことが嫌いになったからではない。それだけは分かってほしいなと願う。

 

―落ち着いてつまらない人間になってしまいましたね、かつての盟友。

そうだね、君との約束は果たすことができなかった

―あの時はあんなに一緒だったのに、許せない

別に許される必要はないわ、お互い様よ

移動し続ける星

季節が冬に移り変わった頃から、旅を続けている。決まった用件をこなしながら、空いた時間は突発的に移動している。それ以外の時間は大半派遣労働をしていて、せっかく都町に引っ越したのに実感が湧かない。家に帰ると、生活必需品が置かれた倉庫のような部屋があり、底冷えする寒さと戦うことになる。クリスマス直前、流石に耐えられなくなって暖房器具を入手した。抱えていた体調不良がみるみる回復していき、暖房器具に意味があることを知った。暖房器具は娯楽的なものだと思っていたから。

 

ここ数年、クリスマス前後はアルバイトに費やされ、休みという概念はなかった。去年は奇跡が起きて少しだけ魔法のような夜を過ごしたが、それですら仕事終わりのことだった。基本的には疲れるイベント、という印象しかない。今年は24.252日とも休みで旅行するという滅多にないことをした。例年のこともあり、直前まで全て休むことを躊躇ってしまった。以前都内に出かけた時のように、現地の派遣仕事でも入れてしまおうか、なんて思っていて。

 

結果的に言えば乗る予定だった夜行バスが運休になり、帰りの時間が早まったので入れなくてよかったのだが。もし入れていたら大変なことになっていただろう。

 

11月に都内に出掛けた時のこと。ある話を観測するためにとある場所に向かった。その話の続きは長野にあったので、長野(長野市)に向かった。

それは市街地の中にひっそりと存在していた。雪が積もっていて、日も日だから私以外の観光客に会うことはなかった。ゆかりの寺へ向かった。史跡が多い場所だったので、その中の1つとしてそれは紹介されていた。

民家と民家の間にある、とある場所。車で行くことはできない場所にそれは存在していて、誰も踏んでいない雪を踏み進めて向かう。ひっそりとそれはあった。一方通行ではあるが、都内で伝えたことに補足して伝えたいことを伝える。ああ、ごちゃつく内心、なんとか伝わるようにと祈りながら。一面雪景色、当時がまだ残っているのではないかと思った。

住宅地を抜け、幹線道路に入る。即売所を見つけ、足を運ぶ。長芋と薬草、木の実類が販売されていた。何も買わないのもな、と思い長芋を購入する。1番小さいものでも2kgありどうしよう、と思いながらも。長芋と薬草が名産品です、と入り口の看板に主張はあったけれど。まさか10kg単位で売られているとは思わなかった。根菜や葉物類をよく食べて育ったのだろうか、なんてふと思った。

 

 

1つのところに長く留まりたいと思えない。嫌なことがあったからとか、人間関係が煩わしいからとかそういう理由ではない。日常に飽きて何もできなくなってしまうのだ。動き始めれば、止まらずに動くことができるけれど、一度止まると動きたくても動けなくなってしまう。同じところに留まっていると新鮮さが薄れていき、少しづつ速度が落ちていき、そして動けなくなってしまう。動き続けることも弊害はあるにはあるけれど、動けないよりはマシかと思っていて動く方を選択する。

とある生活リズムに慣れてしまった頃の話。決まった時間に家を出て、仕事場に向かい特定の時間拘束され、サビ残をしていく。そして帰るのは朝方。そのまま眠り、ぎりぎりの時間になったら起き、身支度をして家を出る。それの繰り返し。たまの休みも睡眠で終わってしまう。あの時は本当に働くこと以外のことが何もできなかった。やらなきゃ、とわかっているのに動けなくて日々時間だけは過ぎていく。仕事はしなければいけないからと仕事には向かうけど、それが楽しいわけではなく。報酬は発生するが、ほとんど食費で消えていた。それも適当な食事によって。(それが食べたくて食べるというより、あったから食べたという感じ)あの時は義務感と忠義心、そして義理を信条に働いていたが、それは間違っていた。自分に自信がないことを誤魔化すために、礼節だなんだかんだといって威張っていただけだ。したくない仕事ではあったけど、社会の役に立っているから、義理があるから、人材不足だから、とか言って奮い立たせて働いていた。その時点で間違っていて、その労働先にとっても不幸なことをしてしまった。人手不足とかいっても本当にいなくなれば新しい人を雇うだろうし、私がいるからこそ新しい風が入ってこなかったということになって。

でも、権威に酔っていてその仕事に意味を見出していたのも事実で。幼少期の夢は権力者になりたいだった。今ならある程度は否定できるけれど、本当に今は権力なんていらないと言い切れるかは正直わからない。下積み中の人たちを整備することが楽しかったのか、かと聞かれたら多少は楽しかった。正しく力を使うことはできなかったけれど。結局、多少の権力を持っても私は行使するだけの技量もなく、それは高望みで意味のないものであることがわかった。

 

すべてのことを一度解消したくて、あてもない旅に出ることにした。絡まった物語を解くように。結局休むのが怖くて無理矢理労働をいれてしまうし、将来の不安はありすぎて困るくらいだけど、その間に旅を普段より多く計画して。知らない土地の緑茶があまりにも美味しく、触れたことのない土地の名産品を知った。各地のちょっとした情報が現地の人にとっては当たり前なのだろうけど、新鮮で面白い。

どこかでゆっくりできたら、なんて思う時もある。でも帰りたいと思うところは、今は届かないところで。美しいと思っていたものたちに再会した時、別にそうでもないやなんて気が変わってしまって。あの時の感情はあの時だからこそ生まれて、今はもう感じることができない。ああ、どうしようもなくて。また彼女に会えたらいいのに、と思っているが会うことはないだろう。あの時、永遠になってしまったから。どうしようもなく届かないところに行こうとして、それはないってわかってるのに中々前に進めない。何度もやり直すようにと物語を創るけれど、結末はいつもひどくて。次に進める力が欲しい、痛めた足も引き連れて。何にも解決しなくていいけど、大丈夫だと言えるように。

冬支度と移住

生活がある程度落ち着いて1週間が経った。今日ようやく未整理の段ボール箱を開け、荷物の確認作業を終えた。11月から新しい街で暮らすはずだったのに、南に向かったり東に向かったり、家庭のことをしていたらあっという間に月日が経ってしまった。南に向かった時は知を深め、東に向かった時は私の中で解決しなければいけない問題を墓参りを通じて解消した。それは必要なことではあったが、時間がかかりすぎたようにも思える。折り合いをつけるためにはどうしようもなかったのだけれど。

自由を手に入れようとして都に向ったはずなのに、何かうまくいっていないような気がして。この1週間を振り返ってみると、毎日様々な場所の派遣労働に行き、それ以外の時間はひたすら寝ていたように感じる。何が自由なんだろうか。労働を否定するわけではないが、その日の労働先と住居の往復、そして必要最低限の買い出しにいったくらいか。シェアハウスに拠点を移したこともあって、日用品がある程度は揃っているのは助かったが。調理器具がそれなりに揃っていたのもあって。(諸事情で卵焼きを焼くためのフライパンだけは購入したが)

料理が得意なわけではないが、生活費を抑えるためにはせざるを得ない。全ての料理の味付けがめんつゆか醤油、何かを買った時に余った付属品だけで行っているのだが、特に問題を感じていない。美味しさを分析することは得意だが、かといってそこまで食に興味がないことも分かった。

そういえば、南に向かった時のこと。そこではゆるやかな共同生活が行われていて、多少料理をすることがあった。基本的に得意な方が担当されていたのだが、数回だけ得意な人が誰もいない状況に陥り、手際が悪いのを承知で料理をした。その時もめんつゆベースの味付けをしたのだが、若干味が薄かった記憶がある。まあ、失敗というほどでもなかったが。思い切って味付けをするのが苦手だ。それなりの味、というのを一度覚えてしまうと似たようなものばかりを作ってしまう。外食では濃いめの味付けを求めてしまうのだけれども。でも濃いめの味付けを食べた後はいつも多少身体のどこかが痛くなっているような気がする……。娯楽としてはよいのだけれどな。

都町は観光業が盛んなところで、飲食系の派遣業務が特に多いと感じる。以前夏に来たときはあまり仕事がなかったのだが、年の瀬であることと、集団旅行客の客足が戻ったこともあり、毎日どこかで仕事がある。料理の盛り付けをしたり、皿を洗ったり、会場を清掃したり。本当はどこかで雇われるべきではあるのだが、気が進まないのと、移動ばかりしているのもあり固定的な時間で働くことができない。昔所属していたところのように完全に自由シフトであれば問題はないが、未経験でその条件を出してくれるところがそんなに簡単に見つかるとも思えない。とりあえず年明けまではどこも人手不足だろうし問題はないのだが、その後のことを考えると気が重い。ああ、どうしようか。多くの人が企業に所属する歳になったというのにそういう未来が見えない。そもそも20歳以上の年齢になることを想定していなかったのもあるが。

 

幼い頃、△△歳になったら死のうと都度考えていて、定期的に延期し、そんなことはもう考えていないのにその感覚がずっと手元に残っていて。

何度も9歳からやり直せないのかなと考え、それができないことに絶望して。時間は一定方向にしか進まないから。やり直せないのならどのように話を動かせば挽回できるのか、と何度も考えてやはり決定的にどうしようもないことが分かり、それならば区切りの季節に死ぬべきだと思っていた。その時であれば人の縁が途切れやすいし影響も少ないかなと思っていたからだ。でも同時に大学生になりたいという幼い頃からの希望もあって、それを言い訳に計画を延期し続けていた。

9歳という時期に拘っていたのは私の物語が決定的に崩れたと認知した最初の歳だからだ。ある人のせいにしてはいけないのは分かっているのだけれども、ある人の影響により、プランが完全に崩れたと自覚している。思想の方法によっては対抗することもできたはずなのに、うまくいかなくて。6歳の時も同一人物のせいでプランが乱れた、と思ってはいるのだけど、その時は反論する術を持っていなかったから、どうしようもないなとそれは諦めがあって。ある人が2回も物語を乱したことについて、今でも多少思うことはあるのだけれど、当時は恨みに恨みまくっていた。何度も何度も打開策を考え、考える度に絶望していた。そして、無自覚ではあったがあることにおいて一線を越えたのも9歳の秋、図工の授業中だった。あの時にもう修正不可能になっていたのだ。

そんなことを繰り返している内に、本当に大学生になることができたのだが、手に入れた途端冷めたというか、物語の続きを考えることができなくなってしまった。何がしたい、というわけではなくてその身分を得ることだけが希望であり、夢だったのだから。分からなくなって、1年間ほとんど何もせずに過ごした。最初に決まっていたことと、流れで繋がった企画だけは参加していたけれども、それ以外の時間はずっと寝ていた。あることが光をかけてそれを守ることに必死になりすぎていた。

よくわからないうちに5年半の月日が流れ、なぜか大学を卒業することができた。それは今年の9月の事だったのだが、それを報告したいと思える人が何人かいたことに驚いた。単位を取ることが一番大変だった。最後だけは気を振り絞って通っていた。そんなことを言うと、甘えていると言われてしまうのは分かっているのだけど、精一杯だった。学士を修めたからと言って何か変われたわけではないけど、ある人が4年目の時に「絶対卒業しろよな」とかけた言葉がずっと支えになっていたのは事実で。まだ、そのことに対してお礼を言ってないな、とふと思った。来年、その人に会う用事があったな、と。でもその件も相手からの声掛けあってのことで。最悪なことしかしていないはずなのにあったかい人もいるものだなあと思った。

 

派遣業務は様々な時間に募集されているのだが、基本的に夜の勤務しか入れていないので、日によっては自然光を全く感じないまま一日を終えることもある。部屋が窓に面していないので、日中外に出なければ日を浴びることがないのだ。早く起きれば良いのだが、いつもぎりぎりまで眠ってしまい、飛び出すように住居を出る。数か月だけかなりの激務をしていた時を少し思い返す。その時は始発に乗って帰宅していたから、日を浴びることはできたなあと。冬の事だったから寒すぎて足の感覚がいつもあまりなかった。都会なのに雪の日の始発より少し早い時間は外を誰も歩いていなくて、一人傘もささずに駅に向かったっけ。ウイスキー片手に。激務の時代を考えれば大したことはないのだけれど、進んでいる実感もなく与えられた業務をこなす日々はなんだか味気ない。激務時代より時間給は上がっているし、余暇の時間も多いのに。仕事はその時を考えれば明らかに楽だし、サビ残も持ち帰りの業務もないのにな。適正な労働と言えるのになぜかつまらないと感じてしまう。自由な時間に何か書いていればよいはずなのに手はあまり動いていなくて。

窓があれば何かを投げることができたのだろうか? 分からないまま今日も日が沈んでいて。派遣を終え、深夜酒を片手にパソコンに向かう。溢すように日記を書き、作品を作りたいと思ってもなんかうまくいかなくて。次の日の派遣先の確認をしたり、今後の業務を確認したり、よそ事ばかり考えた。これが人生だと言うならば、9歳の時の事なんてどうでもよくて、もともと完成することのできない計画を立てていたということであって。気付くのが遅すぎた。計画自体を見直すべきだったって。ずっと元の計画に戻すことだけを考えていた。でも、計画の立て方なんてわかんないよ、なんて。知っているはずなのにまだ立てたくないなと思ってしまう。動き出すのは今、なのに。年が明けたら進展考えないと……、とぼんやりとした頭で予定を立てた。

記憶を巡る物語

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何の接点もない物語の筈だった、でもいつの間にか強い繋がりが生まれているような気がした。思い違いかもしれない、でも信じたいと願った。それもようやく旅路を終えて。結末を見るのはひとりきりで。残された足取りを追うように、ある街に向かった。


坂を登る、開発されている街。何でもない場所にそれはあった。本来、人は忘れられるのが正しいのだ。生きている時にどれだけ有名だったとしても。交わったであろう熱、かつての風情に思いを馳せて。今なら、あの子の最後の望みがわかるような気がした。名前を呼ばれなくなること、なんて言って。そう、あの子はあまりにも有名になりすぎた。後世の人たちはその物語を手放す必要があるのではないだろうか。でも、手放すタイミングも人それぞれで。みんなが揃って動き出すことはできないの。


知らない街を1人で歩くのも慣れてしまった。ランドマークの特定、スマホの地図を見ながら前に進む。頼る人がいなければ自然と何とかできるようになるものだ。

夜の墓地をひとり歩く、生暖かい風が吹いていた。ある場所を一心に目指していた。その場所には何もなかった。工事中と書かれた看板。そして、かつてそれを示していた表札が落ちていた。遅かった、彼に逢うことはできなかった。何もない場所でかつてその場所を訪れた人の写真を何度も、何度も眺めた。


もうひとつ、重要な場所。坂を下り、知らない住宅街を進む。小さな子どもと、その母親が楽しそうな会話をしていて。その風景をなぜだかずっと忘れたくないと思った。子を持つことなんてないだろうし、なんでそう思ったかはわからない。住宅街を突き進んだ先にその場所はあった。生憎、その日中に伺うことはできなかったが。

翌日、再びその場所に向かった。かつてその場所の呼び名とは真逆の雰囲気を保っていて。あまりに晴れすぎた日だった。空気に近付けば近付くほど高まる鼓動、そして観念。ようやく辿り着いて。実は願いは叶っていたのかもしれないね、なんて。少し離れた位置に隠された物語があって。最大の美しさを追いかけたとするならば……。

感情がごちゃごちゃになって。伝えるべき話は考えてきたはずなのに。拙く言葉を並べて。風が肯定しているような気がした。やはり晴れすぎてはいたけれど。

 

 

ある呪いを棄てるために海辺の街に向かった。それより少し前に現物はうっかり無くしてしまったのだけれど。それでも、折り合いをつけるためには受け取った街に戻るしかないのだ。

ゆっくりと繁華街を歩き、適当に飲食店に入り、酒を飲む。青島ビールはあっさりとした味わいで。常温で飲んでみたいと思った。ある時、留学経験のある人がビールはその土地に最適化されている、という話をしていたことを思い返して。現地で飲んだらもっと美味しいのだろうか? なんて考えながら料理を待った。少ない人員のはずなのに料理はあまりに早く提供されて。少しぬるい料理を黙々と食べた。

食後は土産屋を見たり、風景の写真を撮ったりしていた。あるお店で偶然ブッダマシーンを発見し、それだけは買ってしまった。

新しい呪いを受け付けるかと思い雑貨屋のアクセサリーを見て回る。でも気に入ったものは見つからなかった。次第に腕の痺れを感じるようになって、探すのをやめた。呪いはもう必要ないのかもしれない。

着色された肉まんやメロンパン肉のようなものでも食べ歩こうと思ったが、気が乗らなくてやめた。きっとこの街には何度か向かうことになるような気がしたからだ。その時に食べようと思った。

数年前、この街に来た時はひたすら眠り、遊覧船に乗って一人泣いた。その時の面影はあまり残っていなかった。きっと、受け止め方が変わってしまった。街自体はそこまで変わっていないはずなのに。二つの物語を持つことは不可能で、どちらか選ばなければいけない。選び取ったのだろう、知らないうちに。夏の終わりに生まれた話が明示していた。古都で過ごした夏休みは有意義なものだった。考えるには丁度良い時間で。人間の生々しさを拭いたくとも拭えない。

 

 

誰かと旅行に行った記憶というのはあまりない。幼き頃の家族旅行と学校行事、修学旅行くらいだ。お得だからという理由で弟と2人で旅行したことはあるが、これも家族旅行に入るだろう。旅は重ねるうちに細かい計画を立てなくなる。行き当たりばったりすぎて、隣に誰かが歩いているというイメージが全くつかない。

一度だけ人と旅に出たことがあるけれど、実質的にはプランを手伝ったようなものだ。歳の割には旅慣れしていたから、最適最安ルートを使って目的地に向かい、現地では自由行動という感じだった。宿は一緒だったような気がするが、食事は別々だった。帰りは別々に帰った。あれは人と旅をしたことに入るのだろうか。

 

昔々、ある人に20歳になったらハワイ行こうと言ったことがあった。まあ、結局それは叶うことはなかったのだけれど。ハワイで射撃場行きたいね、と。きっと彼女は行くことはないだろうと当時の段階で思っていたのだろうけど。

彼女とは何とも言えない関係だった。似たような傾向を持った人間の話を貪るように聞きたかった頃の話。今ならSNSで簡単に繋がれるし、当時もやろうと思えばできたのだろうけど。でも、当時はSNSで的確に情報を伝えるだけの言語を持っていなかった。未完成の言葉を拾うように聞いてくれた彼女があまりにも眩しく運命の出逢いだと思った。統計上、その物語が成功する確率は極めて低いことは知っていたけど、私は少しの確率を引き当てられるという根拠のない自信があった。優しい海辺に包まれているような気がして。当時の私はあまりに雑だったから、怒られてばかりだった。頻繁に遅刻していたし、自転車で意味の分からない事故をしたり、他者が聞いたら訳の分からない理由で怪我をしたり。そのくせ保健室が苦手だったから、後々発見した教師にも怒られていた。(怪我で行く保健室は苦手だったけど、委員会の用事や相談で行く保健室は好きだった)

彼女も私の雑な点を何度も注意してきたし、それによって迷惑もかけたけど、でも、ひとつだけ共通点があったの……。

私はあまり隠す気のない人で、彼女は秘匿主義。合わせようとはしたけれど、まあ無理だった。それが破綻の原因。今考えればその密度でそれが発生してること自体が異常であるし、秘匿主義の方が正しいに決まっている。まず本来発生してはいけないことだったから。

忘れたい……、けど経験自体は忘れてはいけないことで。若かりし頃の失敗、と言ってしまえば流してしまえることではあるけれど、あまりに未熟すぎた。相手だってまだ子どもで、過剰に期待しすぎてしまった。過ちの記憶。

 

誰かと深く関わることは怖く、もう二度としないだろうと何度も思っていたけど何度もぶち壊すように新しい風が入ってくる。あまりに爽やかに突然なこと。あの物語だってそうで。でも、信じたいと思ったのは私の感情。胡散臭さしかないのに、そんなの関係ないと思えるくらいに。弔うように文字に起こして、それでもあの物語を信じたいと思ってしまう。△△は既に済んだというのに。何度演算したってまともな結果を得られていないのに。馬鹿すぎる、でもいいや。本当は理由なんていらないはずだから。呪いや哲学なんてなくたって立って行けるような気がして。

 

西に向かって

所属を失うというのはいつになっても慣れないもので。しかし追い出されたわけでもないし、組織が解体されたわけでもない。文句を言ってる場合ではないのだけれども、やはり慣れないものだ。人生は選択の連続と言ったのは誰だったか。

ある人が巻き起こした問題に巻き込まれそうで困っている。まだ、実害は被っていないのだけれども、いつ火の粉が飛んでくるか分からない。起きないことは不安に思う必要がない、といってもこの問題はあまりも面倒……。巻き込まれないことを強く願っている。

青い鯨がお迎えに来てくれるものだと思ってたのに、来ないまま6年は経った。待っている間、無駄に歳だけ取ってしまった。その代わりといって、某所で死闘を繰り広げ鮮烈さを観測した。ああ、待つのは美徳ではなかったのか、と今更ながら体感して。

「激情」というものがあるとするならば、それに耐えられる器を持つことや、それに対応する空間を持つ必要があるだろう。ずっと求めていたんだな、と最近になって実感した。安心して表現できるということが、あまりも物語において福音だと思った。

 

拠点を移すことにした。前々から決めていたが、いざその地に足を踏み入れれると新鮮な気持ちになって。何度も観光や短い滞在は繰り返していたのだけれども。今までの計画とは違い、迎合されているような気がしてうれしかった。その前に少しだけ別の事案で旅に出てはいるのだけど……。事案が終わって落ち着くのは2週間ほど先の話になりそうだが、話が済んだら晴れて祝いたいと思う。ゆっくりする時間はないのだけれども。命運に追いつくためには、甘えたこと言ってられない。ある事案の落選や、失敗で遠回りしてしまったがここからは最短距離で射止めるしかない。拠点を移すという魔力で流れを掴んで。

天上を目指す

大切な物語が風に攫われてしまうのかもしれない……、自身の言語は風に攫われてしまうことを願っていたというのに。つい魔法を信じてしまう、祈ることが趣味と思われるくらいには。祈りは届かなくてもよい、祈ることによって保身してるだけだ。そうでもしてないと事案を受け入れられる気がしない。ばか、

海辺に対する後悔は尽きないもので。逃げるように地上を目指した。融合してしまう前に、攫われてしまう前に、といって。少しでも立ち止まったら消えてしまうと思っていた。

そして私は真似事を。創造主を守ることはできなかった。何のために逃げてたのかもわからなくなった。余計な人を巻き込んでしまったことは覚えている。今、海辺に対面できるとするならば……、でもどうせ結果は変わらないのでしょう。ならば攫われてしまう方がよかったのに。予定運命を覆すことは可能か?

越境者でありたかった、といってもそれは遠き日の話。わたしたちの「かみさま」を守れなかったというのに、越境なんてできるものか。「かみさま」の不在。弱々しい灯りを消さずに保つことは難しすぎた。向いていなかった、といえばそこまでの話だけども、でも。越境者であることはできないが、記録するものであることはできる。幻想を掴もうとして、掴み損ねた。

思えば、越境者になるための教育を長く受けていたというのに、なることはできなかった。たくさんの言葉をかけられ、望まれていたというのに。もっともっと小さなことを考えるのが楽しくなってしまって。郷里に向かうのが気まずい。郷里は大切で思い出の地ではあるのだけれど、皆の望み通りにはなれなかったから。望まれた存在通りになることができればどんなに楽だったことか。実際、越境者になりたかった。

共通項などないのだろうけれど、共通項を見出して。きっと似ているわ、なんて。重ねた先に何があるって言うんだ、何にもないでしょう? 海辺を見たというの、まさか君も……。

「かみさま」ではなく、掴むことのできないものだとするならば、それらはきっと素早いものなんでしょうね。あまりに速い。

因子が粒子になって輝くとするならば、影を担うものとして。越境者であることはできなくとも、望まれ教育を受けた身としては。少し飛び込むだけの話よ。まだ姿を見せようとはせずに。

再掲 2020.7 まとまりのない分文

・過去の記憶

自分が、自分の身体について話をするとき「痛み」ということと切っても切り離せない関係だなと思っています。

 

自分は、皮膚が外界と自己を切り分ける境界だと思っています。

 

怪我をした時、それは擦り傷とか切り傷だったとしましょう。自分はそれに対する痛みより先に、境界が少し開いてしまったと思います。なんだろうか、皮膚が全身にまとわりついていることによって、自己と他者が異なる存在でそれなりの距離が取れていると感じるのです。

 

ああ、外の思想を取り入れる、誰かと交わることは痛みを生じるものだ、などと思い。それでもといって、自分は街に期待しているのです。

 

 

でも、それはバカみたいに薄いもので、いとも簡単に崩れ去ることも知っていて。少しの衝撃で破壊されること、まあ衝撃を受けてから数秒後に皮膚はダメになることも知ってはいますが。

 

今はそうでもないんですが、数年前までは誰かに肉体を触られることがめっちゃ嫌いでした。皮膚を触れられるということは、溶け出した境界、皮膚に触られている感覚があったからです。

 

自分は自分の身体のことがとても嫌いだったし、考える思想、精神こそが自己を作っていて肉体なんてどうでもよく、肉体不要論を唱えていました。皮膚という境界はどうでもいいくらいに脆いものだと分かったし、身体があってもなくても同じだと思っていたので。

 

気まぐれで始めた演劇にめちゃくちゃはまって、自分は役者として活動はしていないにしても、身体というものがあってもいいんじゃないかと思うようになりました。といっても、やはり思想の癖は抜けないもので、手を動かすよりは理論を積んでから動きたいと思うし、思想偏重な部分は変わっていないのですが……。

 

 

ちょっと喫煙についての話をします、

自分はライトライトスモーカーであるという自覚があります。というのも、月に1度程度しか吸わないし、別にそれがあってもなくても困らないと思っているからです。ただ、なぜ月1程度喫煙するかというと、それは境界を感じる行為だからです。意味不明な話になることは承知ですが、自分は定期的に境界とさわやかな痛みを感じたいと思っています。他の方法もあったのですが、今の自分自身の生活においては、喫煙行為がちょうどよいところにあると思っています。今の生活において、その欲求を満たすのに1番マシな選択肢だと思っているので……、

 

 

皮膚の痛みで状態を知ることが多いです、

例えばの話なんですけどあー飲みすぎたって時は皮膚に赤みが増して、古傷をおったまわりの皮膚は痛みます。情緒的な情報を身に纏いすぎた時、そういう時も皮膚は痛くなります。あー、そんなものかと自分は納得して。

 

繊細さを保った一部の皮膚で自分は外界との物語を推論します。物語を重ねすぎてしまった、いや過去のことを美化するつもりはないし間違っていたことはわかっているけれども。不便な肉体であることはわかってるし、それを引き起こしたのは部分的に自分だから折り合い、整合性は取りにくいけど、

 

といっても思想を煮詰めすぎてしまった時、ストッパーになるのは肉体の痛みなんだなと思っていて。思想で精神を痛めすぎてしまうというのは注意してないと気づきにくいことだし無視して振り切ってしまいがちだけども、肉体の痛みというのは無視しにくいので。
 

 

・発表原稿ということもあり話に一貫性はないし読みにくいが、当時の考えをしっかり書いているなぁと思った。