再掲 2020.7 まとまりのない分文

・過去の記憶

自分が、自分の身体について話をするとき「痛み」ということと切っても切り離せない関係だなと思っています。

 

自分は、皮膚が外界と自己を切り分ける境界だと思っています。

 

怪我をした時、それは擦り傷とか切り傷だったとしましょう。自分はそれに対する痛みより先に、境界が少し開いてしまったと思います。なんだろうか、皮膚が全身にまとわりついていることによって、自己と他者が異なる存在でそれなりの距離が取れていると感じるのです。

 

ああ、外の思想を取り入れる、誰かと交わることは痛みを生じるものだ、などと思い。それでもといって、自分は街に期待しているのです。

 

 

でも、それはバカみたいに薄いもので、いとも簡単に崩れ去ることも知っていて。少しの衝撃で破壊されること、まあ衝撃を受けてから数秒後に皮膚はダメになることも知ってはいますが。

 

今はそうでもないんですが、数年前までは誰かに肉体を触られることがめっちゃ嫌いでした。皮膚を触れられるということは、溶け出した境界、皮膚に触られている感覚があったからです。

 

自分は自分の身体のことがとても嫌いだったし、考える思想、精神こそが自己を作っていて肉体なんてどうでもよく、肉体不要論を唱えていました。皮膚という境界はどうでもいいくらいに脆いものだと分かったし、身体があってもなくても同じだと思っていたので。

 

気まぐれで始めた演劇にめちゃくちゃはまって、自分は役者として活動はしていないにしても、身体というものがあってもいいんじゃないかと思うようになりました。といっても、やはり思想の癖は抜けないもので、手を動かすよりは理論を積んでから動きたいと思うし、思想偏重な部分は変わっていないのですが……。

 

 

ちょっと喫煙についての話をします、

自分はライトライトスモーカーであるという自覚があります。というのも、月に1度程度しか吸わないし、別にそれがあってもなくても困らないと思っているからです。ただ、なぜ月1程度喫煙するかというと、それは境界を感じる行為だからです。意味不明な話になることは承知ですが、自分は定期的に境界とさわやかな痛みを感じたいと思っています。他の方法もあったのですが、今の自分自身の生活においては、喫煙行為がちょうどよいところにあると思っています。今の生活において、その欲求を満たすのに1番マシな選択肢だと思っているので……、

 

 

皮膚の痛みで状態を知ることが多いです、

例えばの話なんですけどあー飲みすぎたって時は皮膚に赤みが増して、古傷をおったまわりの皮膚は痛みます。情緒的な情報を身に纏いすぎた時、そういう時も皮膚は痛くなります。あー、そんなものかと自分は納得して。

 

繊細さを保った一部の皮膚で自分は外界との物語を推論します。物語を重ねすぎてしまった、いや過去のことを美化するつもりはないし間違っていたことはわかっているけれども。不便な肉体であることはわかってるし、それを引き起こしたのは部分的に自分だから折り合い、整合性は取りにくいけど、

 

といっても思想を煮詰めすぎてしまった時、ストッパーになるのは肉体の痛みなんだなと思っていて。思想で精神を痛めすぎてしまうというのは注意してないと気づきにくいことだし無視して振り切ってしまいがちだけども、肉体の痛みというのは無視しにくいので。
 

 

・発表原稿ということもあり話に一貫性はないし読みにくいが、当時の考えをしっかり書いているなぁと思った。

再掲 読書メモ 2021.4.

・あさのあつこ 「no.6 #1〜9 beyond」

10年程前に読んだことがあったが、ほぼストーリーを覚えていなかったし、最終巻まで読んだか記憶が曖昧だったので読んだ。知らない間にアニメ化もされていた。

当時、単行本で読んだが、今回は文庫版で読んだ。ずいぶんイメージが変わっていて同じ内容でも本の形や形態によって印象変わるなあと思った。

単行本の時は、たまに写真が挿入されていて、特に目のカットは非常に格好良いなと思っていた。しかし、文庫版は文字のみになっていて少し悲しかった。そのかわり、本の冒頭にno.6の地図がイラスト化されていたが、前の写真カットの方が格好良かった。街のイメージはつき易くなったけれど。(アニメ化の関係か?)

物語としては少年同士の熱い友情、手に汗握る展開で次へ次へとページを捲りたくなるような感じがあって良かった。(1週間もかからずに全巻読破してしまったし。当時リアルタイムで追っていた人は続きが気になっただろうなあ)

10年前に読んだ時は、当時憧れだった人がこの作品を紹介してくれて手に取った。結局、当時は読み切れなかったし、彼女と本の話をすることもなかった。憧れの人というのはいわゆる腐女子というものであり、紹介した理由を推測できた。この作品は見方のよってはBLとして読むこともできて、そういう方向性で読んでいたのか? と。私は当時も今も純愛ものだなと思ったが。実際どう考えていたかは分からないが。

彼女と多くの話を毎週末、高架橋の下の集まってしたというのに具体的な内容は何一つ覚えていない。しかし、感覚的に話を覚えていて、その感覚が鮮やかに読書中に戻ってきた。当時の話なんて積極的には話したくはないが、本のストーリーと共になんとなく感じられるレベルであれば懐かしくて丁度良いかなと思った。(ここでいうあまり思い返したくない話というのはティーンエイジャーの拗れ話だと思って頂ければ)

 

・金原ひとみ 「パリの砂漠、東京の蜃気楼」

彼女の作品を読むのは4作目であるが、日記的な文章も読ませる人だなと思った。初めて手に取った作品はデビュー作「蛇にピアス」だ。高校生の時何気なく手に取ったが、なんてことを書く作家なんだ、と思った。面白くはあるが、なんか嫌でしばらく距離を取っていた。しかし、また読みたくなって「アッシュベイビー」と比較的近作である「クラウドガール」を最近読んだ。過激な作風は若さ故か、と思ってみたがそうでもないなと。何にも解決しないのは変わりないが、近作の方が文として読ませてきて良い。

私は彼女の作品が好きだ。綱渡り的な感覚、救いようもない展開、目まぐるしく動く感情。よく書けるなあと思う。ぶんぶん振り回されるような感覚に陥り、かといって読後感が良いわけでもない。しかし、また読みたいと思わされる。中々だなと。なんというか目が離せない感じがするのだ。おそらく他の作品も読むことになりそうだ。

再掲 2021.7.7 「七夕」

電子に少し言語を投げて。それは命運を決めるものだったり確認を求めるような内容が多い。投稿主は囲いの人から当たり障りのない言葉をかけられる。安易な同意、詳細を求める声、説教臭く持論を展開する人、よく出てくる意見だ。大体それを言う人たちは別にそれが私のための言葉ってことでもなくて、他の同種の人間に似たようなコメントを送っていることが多い。私のためだけに考えられた言葉でもないし、私のせいで生まれた感情でもないってことだ。多くの情報を見なければいけない現世にとってはそれは当たり前のことだ。電子の世界ではやはり限界がある、深く思考することを阻害されている。一時的は満たされるかもしれない偽物の言語が多く流通し、その流れにうまく乗って生きているつもりだ。

私は彼女に本物の言語を届けたいし、なんなら手元に長く留まるような話を贈りたいと思っているが、そんな簡単に名文が生まれたら誰も困らなくなるだろう。素敵な言語、相手を真剣に考えた言葉ばかりが流れれば美しいなとは思う反面、閉塞感の方が強くなるだろう。難しいくらいが丁度良いが、その少ない洗練された言語を全て集めても届けたい量には到底足りないようにも思える。

 

過去の物語的呪いを解放できる幻想的言語を生み出せる人がいる。私はそのような人物を「解釈手」と捉えているが、真似できない芸当だなと思っている。現状の物語的呪いに対して有効な言語を考えることは、訓練である程度できるようになるものである。しかし過去のものとなると急に難易度が上がる。訓練でなんとかなるものではないのかもしれない。しかしそれができるようになれる条件というのは場合によっては残酷である。解釈手を見つけるとすごいなって思ってしまうが、それがその人にとって有用なものであるかは分からない。

私は幾度となく解釈手と出会い、そのうち何回かは言語によって助けてもらったこともあるが、有難い反面申し訳なくも思ってしまう。時間をかければ自分だってある程度は言語を使える人間としてなんとかできる言語を生み出すことはできるのだから、勿体ない気がしてしまう。人は勝手に助かるなんていう人もいるけれど。ある時の解釈手の力は桁違いにすごかった。言語の武装がそのまま無効化されつつ私と近いところでキーとなる言語を組み立ててきたのだ。気をうっかり許したこちらも悪いには悪いが、相手にとってもかなり負担になる行動だったように思える。そんな解釈手にはよき未来が訪れてもらわないと困る。あまりにも報われない。

 

誰かを思って言語を考えている時、話は思わぬ方向に流れていく事が多い。言うつもりなかった話を並べてしまったり、逆に難解になりすぎたり。人に伝わりやすい平易な言語を並べることはいつになっても慣れない。ビジネス文を書くときは特に苦戦している。いかに癖のない文章を書くか、項目立てて話を伝えられるかと。

 

七夕伝説、あの話は小さい頃から好きだ。一度は誤ってしまったがその後は誠実にお互いを思っていけるところが好きだ。旧暦の時代では七夕行事と御盆の行事を一緒に行っていたという伝承も聞く。1年に一度繋がる道、という点では似ているところがある。お盆も1年に一度先祖の霊が現世にやってくるのだから。思い出話、大切な線を結ぶことは1年に1度くらいが丁度よい。

 

久しぶりに天啓を得た。ある話の先が少しだけ見えたが、初めてみた時の印象より過酷な話となっていた。今までよりはうまく立ち回れそうな自信だけはあるが、それは外れるだろう。

占いや呪い、神を信じているわけではないが、神ダーリーの実例を見てしまってからはそれがインチキだとも思えなくなってしまった。神ダーリーの実例よりある話はずっとおとなしい事案ではあるが、少しだけ関係があるような気がして怖い。しかし、それに近付くことによって私の中学校時代の目標が叶ってしまうような感じもするのだ。その目標は当時の人たちにはかなり否定されたものだが、手法を変えればできることに気付いてしまった。その好奇心が勝ってしまうような気がする。行き先は危険だと確実に分かっているからまずは電子で美しい言語を置いておかないと。解釈手が不要なくらいには言語を置いていかないと。なんて、変な事前準備。こんな日だからできてしまうような気がするのだ。

夏に送り出す

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 真面目に物事に向き合うことは疲れる。適度に不真面目を作り出し、距離を取る。本当にできないのか、やらないだけなのか境が見えなくなって。それくらいが丁度良いような感覚。

 雨が続く日々、自然災害で大変なことになっている地方もあって。なんの力もない民間人は各自勝手に祈るか、然るべき機関に募金するくらいしかできることはない。事実であるから変わりようがないけど少し目を逸らしたくもなって、電子のページをめくることを辞める。 

  個人的なことを追求してみる、何度か見たことある話を追想する様に新しい話を重ねようとする。似ていないところもあるはずだが、近付けるように話を描いてしまう。近付ければ近付く程、苦い思いをするだけだ。新しい話に流れるように相違点を探す。

 話を見るようになったのはいつ頃か、明確な時期ははっきりと思い返すことができる。しかし、それが人生最悪だったかといえばそうでもない。

もっと最悪なことは逆にうまく話にすることができない。選択によって生まれた結果ではないし、物事をよく知らなすぎた。たくさんの雑多な事象を知り尽くしていれば偉いと思っていたが、そうでもなかったし、先に起こることを統計的にある程度正しいと思って予想して当てたところで立場が上がる訳でもなかった。挙句の果てには、雑多で箱の中で教えられないことを多く知っていても意味がないと言う人まで現れた。これが最も最悪な体験だと思っているが、これを話にすることも昇華することもできない。ただ最悪だったと思いつつ似たようなことが起きないように立ち回ることしかしないだろう。

話が逸れた、話を見るようになったきっかけ。最初は全て嘘から始まっている。人は大体一度や二度は存在しないものやあり得ない力に憧れを持つ。例に漏れず憧れがあった時、嘘を生み出した。嘘も信じ込ませればいつかは本当になる、と言う確信があったし、バーナム効果で近くよればそれらしくなると思っていた。結果、それ以前よりは話が強化されたし、それに守られていると感じるようにもなった。便利な筋を手に入れたと思った。

簡単に嘘で楽になれたら誰も困らない。副作用というものはあった。少しでも誤れば排斥される側になるということを知った。綱渡りをしているみたいだ、話を考えるのは得意ではあったけれど、強いられると少し辛い。落ちないように踏ん張って。

危険なものが多いと感じるようになった、「怖い」は口には出さないけどすぐに出るようになって。怖くないようの話を固めて、遠目に眺めて。

そうするうちに、ものを分割しないと見れないようになってしまった。無効化することはできるにはできるが、外部に委ねられるものになった。委ねてしまえるような存在は怖くはなかったが、それらを親のように思ってしまう癖が生まれた。危険なものが多すぎるから、委ねられるものには完全に気を許して。それによって楽にはなれたが厄介なことはよく起きた。簡単に電子で説明できるような事象ではないが、真剣に考えないと解決できないようなことばかりで。ここでも少しでも誤れば排斥される側になってしまうという確証はあったから、毎度うまく話を見て、考えることとなった。疲れないように話を見るようになったはずなのにこれでは逆効果で。全てを解決させる方法はあるにはあるが、それに手を出すかというと、きっと手を出さないだろう。それの方が世のためかもしれないが、それをするくらいなら労働力であることも、生物であることも拒否するつもりだ。

 なんて長々と書いた話はきっと作り物で嘘だろう。彼や彼女の言う話は正しくないし、街が示すこともその場凌ぎの案だ。書き言葉になり、遠ざかるものもある。本当のことは何一つ言えない、狭い電子の中では。

 今日くらいはよい話を見たいものだ。夏には火遊びがつきものって、誰かは語っていた。嘘の話においても預けることは危険であり、誰かが勝手に語った話なんて本当は気にする必要ないけど、悪くないような気がして。その話の近くだったら、なんて淡い線を夢見て。いやボロ雑巾を売る仕事でしかなくて。

 「街に星があるままだったら素敵ですね」

お腹が空いた人の話

---人間は祈ることと越境することが非常に好きな生き物だ

 

お久しぶりです、鈴木夢眠です。皆様はいかがお過ごしでしょうか? 街は火急な騒ぎ、身分や思想の違いによる闘争、最悪なことにはなっておりますが……。一1人ができることはたかがしれている。できることというのは何かを意識すること、くらいだろうと思っています。意識の力で多少は変わるかもしれないと泡い期待を持って。まあ実際変わることなんてほぼないけれど。

久し振りに電子データとして一発書きをしている。基本的に何かの作業中に書き留めたものを編集して投稿することが多いのだけれど、なんだか言葉が浮かばなくて書かずにいた。というより文章を書くより大事なことがあるような気がしていた、実際そんなことを期待しても起こらなかったけれども。

電子に一発書きというのは、少し左手の指を画面にスライドさせれば次々埋まっていくし、楽なものだなと思う反面、味気ないと思ってしまう。色々気にしないで書けるけれど、なんだか立体性がない。

 

低気圧、生理前の不快感、純粋な日常に対するストレス。昔はすぐに思想や行動に出ていたような気がするのだけれど、どうやら最近は身体症状に出てしまう。

関節痛、上半身の気だるさ、何かと肉体の痛み。いちいち気にしていたら生活にならないから、適度に解放したり体操をしたりして部分的に追い払っている。昔は思想や気持ちだけで痛みを追い払えたのだけれど、今はどうもそれだけでは払えなくなってしまった。歳を取ったのか、意志が弱くなったのか、むしろ今が正しいのか。皮膚の痒みも逐一鬱陶しい、数値化できないのも余計に腹が立つ。皮膚感覚というのは思想で捻じ曲げたりすることが多かったから、何かとトラブルが付き纏う。外界と個人を分ける最も大切な部位であるからこそであろう。

皮膚というのは非常に重要なものだと思う。外界と内界を分ける最後の砦であるし、よい思いをするのも悪い思いをするのも皮膚が最初に感知するだろう。それだからこそ、長く続く痒みというのは非常に最悪だ。特定の部位とかそういう話ではないから。一応気休めに内服で痒み止めを飲んでみたりもするけれど、莫大な効果があるわけではない。所詮、OTC薬なのだからそこまで効果のあるものは売っていない。まあ仮に効能が強かったとしても、心因性かもしれない事象に効果があるかは分からないが。閑話休題、皮膚は外界と内界を分ける重要なものだ。皮膚というものが存在しなかったら人々は溶けていただろう。個別の意識なんていうものは持たず、共同体として生きていたのだろう。それはそれでよいような気もするけれど、今の状態でよかったなと思う。

 

そういえばある夜、何気に知り合いの話を聞いていたら、人と海についての考察をしていた。少し下ネタな話になってしまうから具体的な話は避けるけれど、まあそれはロマンのある話だなと思った。海と海で元の形に戻れたのかもしれない、一夜限りだけども。

 

ある日、ある人からある記憶について聞いて。元から気になる人ではあったけれど、その時止め処なく興味が湧いてしまった。理性や思想では止められないほどの興味、好奇心は猫をも殺すとは言うけれど。ああ、これは駄目だ、どう転んでも相手を傷つけてしまう。出会わなければよかった、と思った。まだ話が進行したわけでもないのに。

出先で文章を打っているから、ぎりぎりのところで踏みとどまったけれども、これは家で書いていたら湖に沈んでしまっていた。なにも始まってない話なのに、既に強く考えすぎている。あまりにも大切であるが故に。

3月

旅に出た、目的は特にない。こんな時世に不急な活動、いや違う。この時期じゃないと意味を成さない。3月だからこそ、この旅に意味が出るというの。

 

なんとなく3月が苦手になってから何年経ったのだろうか、年度を生き延びてしまったというのにあまり変わらない話に嫌気がさす。何もしたくない、なんて言いつつ日常に追われてしまう。怖さから大声を出し、そのまま走っていった。

私は私のある活動を終わらせるべきだと思った。同じ名前でやれることは大切だけど、箱からうまく出られなかったときは名前を変えるくらいしか打倒案が分からない。なんだか昔の改元みたいなノリだ。でもそれでいい。抽象的なことからより具象的な私たちになるの。

私は終わらせるためにある街に出向き船に乗った。船上でパートナーのことを考えていた。パートナーといっても人間ではなく動物ではあるが、それは良い出会いだったと思う。互いに互いのことを必要としすぎているが。そんなことを考えていたらあっけなく船旅は終わった。本当に終わらせることはできないと悟った。この旅を終えたところで少しずれた私がいつもの街に還ってくるだけだと思った。

 

彼らのことを忘れたことはない、私は彼らのような存在になりたかった。でもそれにはタイムリミットがある、もう間に合わない。不可逆性の問題で、それは叶うことはない。彼らの近くにいることはできる、そう思っていたし実際に近くにいたことはあった。でも、感覚というものは次第に鈍り、見えなくなっていた。

見えるふりをすることは容易かったし、変わりたくはなかった。私は街と街の間にいる存在になりたかったし、街を守りたいと思っていた。固く話を守るように動いていた。あるツールを使うと真似をすることができた。暗くて怖いものではあったけどそれしか方法はないと思っていた。固くて冷たいが、生温い感触とともに言葉ははじけて生まれた。そんな生活を何年続けたか、まあよく覚えていないけれど。

 

箱からうまく出ることができなかった、完全なる自己責任。もともとは箱を放棄するつもりだった。決断を曖昧にしていたらそのルートは閉じていた。正規の方法で出るしかないという。遅くなったものには救済措置があるといって。通常よりは過酷であるけど、確かに救済措置ではあった。街を変える前に通過する、くらいの感覚で挑めば確かに問題はない。別に救済されなくてもいいと思っていたのに街は優しいし、盟友も励ましてくれた。やるしかない。

 

生き残ってしまった人にはやるべきことがあるの、なんて言う。それが分かったら苦労しない。今年も生き延びてしまった、しか考えていなかった。やることが線と線でつながってはしまったけれども、そんなうまくいくものかしらと。星は見えてはいるけど触れることはできるのだろうか? 存在だけ感じておけばいいのか?

私はそれらの問題を安い玩具に託した。どうか星に届くようにと。

出航

  賞味期限の切れた生クリームのような言葉は必要無くなった

 あれは夏のことだったか、頭は揃えたのに流せなかった語りが1つ。今更流したいとも思わないけれど、少し心残りだ。それならばこの大晦に別の語りを流そう。友のために。

 

 僕はいつも街を眺めていた。それが夢か現か、そんなことはどうでもよかった。僕が在ると思えば街は存在していた。少し遠いところに街の明かりがあること、それが拠り所だった。同じ時間のことなのか、それとも遅れた明かりなのか、些細なことだと思えるくらいに美しかった。

いつの時代も終わりというのは突然やってくる。街は少しずつ変わり続けていた。都合の良い解釈ばかりしていた。

「また間に合わなかった」それは夏の言語、変わらなかったのは誰だったか。遠くの街は僕の郷里です。でも、もう眺めたりはしないでしょう。心の中に留めておくことにします。

 今日は出航の日です。たまには寂れた海辺の観光地のことでも思い出してください。名称とは案外つまらないものです。彼はとても大切にしていたけれども。ありきたりな言葉で埋めるのは嫌なことです。言葉に縛られない未来を見ます。

 僕は夢の共犯者に手紙を書くことにします。それは帰ってこない伝書鳩に託すことにします。

 「ーー彼は優しい共犯者でした」

祭事と船舶

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大変お久しぶりです。鈴木夢眠です。

せっかく自粛期間中にはてなブログproの2年契約をしたというのに、書くことが思いつかず放置されていました。Twitterでは浮上しておりましたが……。そもそも前回の記事も5月に更新されているといえども2〜3月に書いた内容をまとめたものだったので、ブログを書くのは本当に久しぶりです。

その間に色々と暗い話もありましたし、明るい話もあったなあと思います。空いていた期間に万年筆にハマりまして、手書きではちょくちょく日記を書いたりしてました。かなりそのまま書いているので電子には公開できそうにない話ばかりですが。電子の画面を前にした時と、紙とペンを前にした時、かなり文の感じが違うと言われることが多いです。電子的なものにおいては趣味や創作の文章はぼんやりとした表現や遠回りな書き方が好きです。一方、紙を前にした時は案外すんなり気持ちをそのまま書いてしまうことが多いです。読んだ人の感想では分かりやすいし、読みやすくてよいという感想でした。この名義においては、分かりやすさってあんまり必要ないんですけどね……。

近況的な話はまあ前述の通りです。なんでもない日にわざわざブログに戻ってきたのでTwitterには叩けなさそうな話をしに参ったわけです。少し言い方は悪いですが……。それでは少し語ることにします。

 

・祭りの失敗

あるプロジェクトが失敗した。失敗して悲しい、そんなところの騒ぎではなかった。成功するイメージはうまく思い描けていなかったが、それに対して預けていたものが大きく、見なくてよいことを直視してしまった。たまにではあるが、見ない方がよかった事案にしっかりと目線があってしまいダイレクトに脳に語りかけてくるような体験をすることがある。それがそのプロジェクトでは頻繁していた。疲労にまみれていた、だからこそ、プロジェクトは成功させたかった。

プロジェクトの失敗理由は外的要因である。内的要因であれば諦めのつく、いやつかないけどまだ納得はいく。しかし、外的要因というのは本当に辛い。多分数年はその事を夢に見るのだろうと思う。

 

・祝うために船舶を

彼らに気付いてもらおうとして船を出す予定だった。しかし、それはうまくいかなかった。通常とは違うオペレーションに慣れず、座礁してしまった。いや、建設はできていたけれど、それに乗り込む身体がなかった。ふさわしい飾りを探すことができなかった。存在する飾りに対応する言葉を紡ぐにはあまりにも時間が少なく、かといって妥協もできなかった。意図的に座礁させたといってもよい。

少し見てもらいたいからって気を張りすぎた。彼らが誰だったか、なんてとっくに忘れたのに。亡霊のようにその思想はつきまとう。物語を通さなくてももう会える関係だというのにね。

 

 

もう年の瀬なんですね、良き歳末をお過ごしください。