再掲 2021.7.7 「七夕」

電子に少し言語を投げて。それは命運を決めるものだったり確認を求めるような内容が多い。投稿主は囲いの人から当たり障りのない言葉をかけられる。安易な同意、詳細を求める声、説教臭く持論を展開する人、よく出てくる意見だ。大体それを言う人たちは別にそれが私のための言葉ってことでもなくて、他の同種の人間に似たようなコメントを送っていることが多い。私のためだけに考えられた言葉でもないし、私のせいで生まれた感情でもないってことだ。多くの情報を見なければいけない現世にとってはそれは当たり前のことだ。電子の世界ではやはり限界がある、深く思考することを阻害されている。一時的は満たされるかもしれない偽物の言語が多く流通し、その流れにうまく乗って生きているつもりだ。

私は彼女に本物の言語を届けたいし、なんなら手元に長く留まるような話を贈りたいと思っているが、そんな簡単に名文が生まれたら誰も困らなくなるだろう。素敵な言語、相手を真剣に考えた言葉ばかりが流れれば美しいなとは思う反面、閉塞感の方が強くなるだろう。難しいくらいが丁度良いが、その少ない洗練された言語を全て集めても届けたい量には到底足りないようにも思える。

 

過去の物語的呪いを解放できる幻想的言語を生み出せる人がいる。私はそのような人物を「解釈手」と捉えているが、真似できない芸当だなと思っている。現状の物語的呪いに対して有効な言語を考えることは、訓練である程度できるようになるものである。しかし過去のものとなると急に難易度が上がる。訓練でなんとかなるものではないのかもしれない。しかしそれができるようになれる条件というのは場合によっては残酷である。解釈手を見つけるとすごいなって思ってしまうが、それがその人にとって有用なものであるかは分からない。

私は幾度となく解釈手と出会い、そのうち何回かは言語によって助けてもらったこともあるが、有難い反面申し訳なくも思ってしまう。時間をかければ自分だってある程度は言語を使える人間としてなんとかできる言語を生み出すことはできるのだから、勿体ない気がしてしまう。人は勝手に助かるなんていう人もいるけれど。ある時の解釈手の力は桁違いにすごかった。言語の武装がそのまま無効化されつつ私と近いところでキーとなる言語を組み立ててきたのだ。気をうっかり許したこちらも悪いには悪いが、相手にとってもかなり負担になる行動だったように思える。そんな解釈手にはよき未来が訪れてもらわないと困る。あまりにも報われない。

 

誰かを思って言語を考えている時、話は思わぬ方向に流れていく事が多い。言うつもりなかった話を並べてしまったり、逆に難解になりすぎたり。人に伝わりやすい平易な言語を並べることはいつになっても慣れない。ビジネス文を書くときは特に苦戦している。いかに癖のない文章を書くか、項目立てて話を伝えられるかと。

 

七夕伝説、あの話は小さい頃から好きだ。一度は誤ってしまったがその後は誠実にお互いを思っていけるところが好きだ。旧暦の時代では七夕行事と御盆の行事を一緒に行っていたという伝承も聞く。1年に一度繋がる道、という点では似ているところがある。お盆も1年に一度先祖の霊が現世にやってくるのだから。思い出話、大切な線を結ぶことは1年に1度くらいが丁度よい。

 

久しぶりに天啓を得た。ある話の先が少しだけ見えたが、初めてみた時の印象より過酷な話となっていた。今までよりはうまく立ち回れそうな自信だけはあるが、それは外れるだろう。

占いや呪い、神を信じているわけではないが、神ダーリーの実例を見てしまってからはそれがインチキだとも思えなくなってしまった。神ダーリーの実例よりある話はずっとおとなしい事案ではあるが、少しだけ関係があるような気がして怖い。しかし、それに近付くことによって私の中学校時代の目標が叶ってしまうような感じもするのだ。その目標は当時の人たちにはかなり否定されたものだが、手法を変えればできることに気付いてしまった。その好奇心が勝ってしまうような気がする。行き先は危険だと確実に分かっているからまずは電子で美しい言語を置いておかないと。解釈手が不要なくらいには言語を置いていかないと。なんて、変な事前準備。こんな日だからできてしまうような気がするのだ。