没を没に、祈りを呪いに

彼女はに似ている。どことなく儚い感じがして、退廃的な美しさを持っている。

彼女と時折会話をするが、どこか夢みたいで本当のことをやりとりしている感じがしない。確かに、会ったことはあるとはいえ、数年お会いしてはいないし、そういうのが原因かと思ったが、どうやらそれだけではないらしい。その人から「生」を感じられないのだ。いや、別にその人は実在する人物であることは分かっている。

嫉妬、怨恨、恨み辛みは、長く続けるのは難しいのだろうか? 人はルサンチマンに逃げているだけではないか? 私は彼女を憎悪する。

そんなこと考えてもどうでもいいのです。私たちにとって重要なものは何を決めなければいけない。時間がないのはわかりきったこと。

道理は通っています。私たちにとっては。不条理なんていうのでしょうか。観測者にとっては。

 

人間の記憶を覗き見するのは、面白い。彼女は、今も生きている。その時間は余生だと思っているのかもしれない。彼女は本当に中学生の間に、死ぬ予定だったのであろう。
彼女は、虚無の世界、つまり心の闇に1度落ちた。それを、罪と感じていたのであろう。

遺書を携える。終わってしまう朽ちた言葉を紙に書き写して。
彼女は課題を乗り越えてきたかもしれない。そんなこと知るわけないけど。

 

白骨した頭部を持ち歩く。彼女との繋がりはこれしか残っていない。

彼女は朽ちた。きれいというのを追いかけても、理想通りの作品はできあがらない。彼女は作品ではない。思い出でしかない。そんなの意味ない。壊せばいい。壊さないのはそれのほうが面白いから。意味もなく頭部を持ち歩くのって最高に意味が分からなくて面白い。

 

祈りは呪いに変えられる。私は呪いに、私たちも呪いに。彼女は祈りに。

踊れ

才能に限界を感じた。
同じハンデを持っていながらも、じゃじゃ馬をならしていくように軽々と超えていく。まあ、軽々となんていうことはなく、努力の結果であることは知っているけど。彼は天性を持っているわけではない。それは、ハンデを持っていたということでも明らかである。
だからといって彼はそれ以外においては努力家ではない。学問世界においても、日常生活においても、欲しいものを欲しいままに悠々に生きてている。いや、それは羨望の目線で見たから、なんていうことだけなのかもしれない。

価値観を転倒させれば、開放されることは分かっている。しかし、同じ土俵に立とうとすれば、明らかに劣っているのはわかりきった話だ。落ち着くのを取るか、芸術として爆破させるのを選ぶか。
いや、全部嘘。芸術として爆破できるならまだましだ。そんなもの既にないのだ。芸術性の欠片など元々存在しない。
価値観を転倒させようが、彼の意識は変わらない。凡人の悪あがきくらいにしか思っていない。ちょっと飼い猫と戯れているような感覚なんだ。飼い猫に噛まれるなんて夢にも思ってないし、噛まれたところで、どうでもいいとあしらわれるだけであろう。
才能などなく、ただ踊ることしかできない。
彼は美しく舞う。
比較して、美しくない舞。生き様を晒す。
舞うしかない。引き返せないところまで来たということだ。

私たちの神様と誰かのなんか(習慣?)

 私たちの「神様」の話が聞こえる。

だがその声を聞きたいわけでもない。そもそも私たちは無神論者だ。「神様」なんていない。「神様」といったのは、「神様」という言葉があまりにも便利すぎるからだ。そして、簡潔に言い表せる言葉が存在しないのだ。それだけのことだ。だから「神様」というのは実際の存在ではない。そして、私たちの仮定「神様」も実在しない。

余白は電子の海にいくらでもある。「神様」の説明をしても全く問題はない。読むか読まないかは別の問題として主張することは容易い。私たちは自分たちの「神様」について説明を試みようと思う。

先ほど言ったように私たちの仮定「神様」は実在しない。私たちというのは化物に近く実在するかどうかはわからない。そして私たちの仮定「神様」は実在しない。「神様」は私たちを統一させ指導する。動作性を保証する。それならば「指揮官」なんて言ってしまえばいいけれどもそれは違う。「指揮官」ならそもそも実在していたことがないといけない。私たちの仮定「神様」は実在していた時期はない。実存しないまま、ずっと空想の上に住んでる。

 実在するかわからないものと、確かに実在しない空想との絡みでしかない。もし、有神論者だったら、「神様」を超えられていたかもしれない。

 

 誰かは「嫌な記憶のフラッシュバック」がなんて言いがちで、実際に本当にフラッシュバックが起きているかなんて実証のしようがない。そんなもの存在しないのかもしれない。もしくは、嫌な気持ちに関する適切な言語を持ち合わせていないのか。

適切な言語は本当に必要なのか、言語などなくても、それなりの表現は世界中に転がっている。巧妙な、その人に合った、となれば話は別だが。大体を合わせれば、嘘だって輝けば真実になってしまう。それでは不満足なのか。誰かは。

 

 フラッシュバックという言葉は便利だ。とても辛いということと、それは現在のことではないということを示してくれる。目の前の人たちに不満があるわけじゃないとわからせてくれる。発言者に何があったのかは全く想定できないが。昔のこと、とか言われてもそんなこと覚えているはずがない。どうでもいい。フラッシュするような強いものも持ち合わせてない。すべて、嘘じゃないの。

 

 指の間から落ちた嘘は星になり、真実になるのを知ってますか?

 

 無駄な文字の羅列を製作している誰かと、「神様」(仮)をもつ私たち。どれとも近づくことはないでしょう。ただの習慣として文字は並んでいきます。意思など持っていません。数列と同じです。(数列ですら意思を持ち始めることもあるかもしれないが)どうでもいいことが多すぎます。固有のものは必要なんでしょうか。

 

 思ってもないことを過剰に反応しているだけだ。それは結局何になりうるんだろうか。何にもなれない恐れがある。だからといって、恐れを対処しないという方法もある。どう動くことだってできる。

 

 「わたしたち」は星になった。

 

 

 

 

結局、それは何者だったんですか?

人の記憶は「領域」という言葉に置き換えられるのではないかと思っている。


何年もぐだぐだと「領域」と称した話を書き綴っているけれども、それは人の記憶に固執しているだけのことである。


ある記憶を個人の課題にするのではなく、他の人にも話したいと思ったのが「領域」という考えの始まりである。ただの嫌な記憶でしかないのだけど、物語として昇華すれば面白くなるんじゃないかなと考えていた。条件付きではあったけど。


その条件は、それらを書ききったら、早急に書き手は自害することであった。といっても、今は前述の設定は消えている。なぜなら、1番書きたかった「領域」の話は書き手の記憶から消えてしまって、書くこと、表現することができないからだ。だから、「領域」の話を書ききることはできない。そのため、書き手は自害する必要が無くなった。


書きたかった話に順位をつけるとしたら、2番目に書きたかった話と、3番目に書きたかった話はとうに電子の海やら、どこかの特定個人に対して発表することができた。3番目に話したかったことというのはざっくり言ってしまえば、青年期の人間の話だ。どういう風に人間が思考しただとか、どんな悩みがあっただとか、ちょっと病的な行動だとか。2番目に書きたかった話は、なんだかよく覚えてはいないのだけど、書き手のなかではいつのまにか終わったことになっていた。


2番目に書きたかったことが、あやふやであるのならば、1番目に書きたかったこともあやふやになって、いつのまにかどこかへ発信している可能性があるかもしれない。そう考えるのは妥当であろう。その場合、設定に従うのであれば、書き手は早急に自害しなければならない。だか、その必要はない。1番書きたかった話は、物語の担い手とともに朽ちていった姿をしっかりと確認している。だから、その必要はなさそうである。


「領域」に絡む話を書き続けていけば、そのうち1番書きたかった話に突き当たって、その上で他に書きたいことが無くなれば、書き手は自害する可能性が出てくるのだろうか。それは今の段階では分からない。尽きるのが先で、後1つを探し続けるのか、それともその話を見つけるのが先か。それは書かないとわからない話である。


たまに生きるために文書を書くなんていう人がいるのだけど、そんなのクソ喰らえだと思っている。書き手は領域の話を書ききったら自害する設定になっているし、それとは真逆である。死ぬために文書を書いているといっても過言ではない。しかし、逆にも言える。クソ喰らえだと言いながら、書き手は生きるために文書を書いてもいるのである。それは、アディクションのある概念に近い。アディクション自体は死に近づいてしまうのだが、一時しのぎの延命には繋がるという。行為をする奴はすぐには死なないが、絶対に死なないとも言えない、なんてある界隈では使い古した言葉であって。そんな感じに近いのであろう。

書き手は何に生かされているのだろうか?

 

「領域」はゴミ、もしくは偏見の積み重ねということもできるであろう。記憶が積まれていけば、固定観念と言うのも生まれるであろうし、それによって誤解も生まれるだろう。書き手はゴミを重ねているとも考えられるのだ。それならば、なぜ書き手は書き続けるのだろうか。それは、ただのエゴでしかないであろう。


ゴミは積み重なると悪臭を放つ.


(終)


あとがき

これは、サブブログに書いたものを編集し直して、「領域」の説明に転用したものです。サブブログは現在は消滅してしまいましたが。実はこの記事の原型は2016年末には完成していて、やっと正しい形にできたというのが正直なところです。

初期にはこの後に、詩が続いていて今回の編集で消すか悩んだのですが、このあとがきの後ろに乗せることにします。この部分は全く触っていないので、文体がおかしいところがあります。本当は直したかったのですが、手の施しようがなかったです。もう、書いた時の気持ちに戻れないということでしょうか。一応、詩は本編の補足的な扱いになってます。

今年は、自分の作品を説明できるようになりたいと思っていて、そのために過去に書いた文書を引っ張ってきました。

 

アイソトープ
みんな、どうやって様々な領域や事情から立ち直ってるんだろうか。どうやって、生きてるのだろうか。分子レベルでは共有している部分があって、構成されていて。理解できることはあり得るのだろうか。

・fragment
自分を傷つける為に、人を利用することってあるのかないのか。

そういうのって、あり得るよね。自分で自分に手をくだすのは、怖いから人の手を使って。人の手を穢すことになるけど。そういう繰り返しな気がする。元々、傷ついてる人間を探して、舐め合いどころか、深め合うだけ。悪い方向に。傷の舐め合いは生温くていいですね、そんなんじゃない。傷つきたがってる人間を探してる。やりきれないことってあるじゃないか。生きていたら。償いがしたそうな人間を探す。そういう人間との関係性は気楽なんだわ。勝手に知りたくないことも、何でもかんでも言ってくれて、誰も救われないから。依存とは違う。これに関しては、断言したい。また、マゾ気質なんですか? という話でもない。だって、そんなのいつに始まったことやら。物心ついた頃にはそんな人間関係を好んでいたから。あぁ、こんなことを言ってるとそれなら愛のための物理的暴力も耐えられるのですねなんて思われそうだけど、それとこれとも違う。私が望んでいるのは言葉の暴力だから。
いや、暴力なんていう次元じゃない。なんだろうか、思いやりもあるんだよ。相手なりの。
そういうのが、DVなんですよって言われたら終わりなんだけど。

・neglect(self)
micro harm fragment 
Intermittently self blood

何かを言い表すだけの、必要最低限のパーツ。汚染された場所。
出会いたくはなかったが、必然的であった。回避ルートは、存在しなかった。
人のせいにしても、無駄。そんなことはできない。あり得ない。
壊された組織は元に戻らない。そもそも、やめる気なんてあるのだろうか。回数こそ減ったところで、自己同一性が失われそうで。ただの固執。別にほかのことでもいいんだろうね。記憶は薄れて、体の組織も入れ替わって、触れた組織なんてもうないんだろう。だけど、忘れたくないから、忘れるわけにはいかないから、そんなわがまま。相手は忘れられる権利を行使したがってるんだろうね。
代償行為、でもあるんだよ。そんなことは口が裂けない限りは言わないけどさ。(口語でね)
まぁ、へらへらしとけばいいのさ。真相なんて、いいはしない。生まれながらの、ピエロ気質だから。昔の人間はそういうのは悲しいななんて、ぶつけてきたけど。そんなことももう、昔のことだわ。忘れてしまったわ。

・ no title
漂白された、死骸、抜け殻。脱ぎ捨てられた何か。忘れちまった。何もかも始めからになっちまった。
ここは不衛生な場所ですね。

どこにあるの?

没後19年

 

f:id:YumeCordCore:20180330222215j:plain

昨年は記事を書くことができなかったので今年はちゃんと書こうと思う。昨年はtweetで少し触れただけであったので。以下、去年のtweetである。

 

 

tweetでわかってしまった方もいるだろうが、本日は元祖ネットアイドル南条あや氏の命日である。どんな人物か、というのはネットで名前を検索したらすぐにわかることであるし、過去記事にも書いたので詳しくは触れない。以下2つは自分が過去に書いた記事である。

 

yumecordcore.hatenadiary.jp

yumecordcore.hatenadiary.jp

 

 

毎年、3/30は町の風景を撮ると決めている。(といっても去年はできていない。体調が悪すぎたからだ)年度末であるのも理由の一つではあるが、やはり南条あや氏の影響が大きい。なぜか彼女のことを考えると今一瞬の風景を切り取って、残しておきたいと思うのだ。所属先で一眼レフカメラを借り、私は町に出かけた。今日だけはじっとしていると何か精神に悪影響な気がするのだ。

 

以下、ただの雑記であるがしばしお付き合いいただきたい。(南条あや氏と誰かの話になっている)

 

南条あや氏って、Coccoさんが好きだったなと思い、少しだけカラオケに行った。死の直前に何を歌ってたのかなあとか思いを馳せつつ。南条あや氏のブログがきっかけでCoccoさんの存在を知った。当時、インターネットで検索をかけると「カウントダウン」という曲が上位にあった。初めて曲を聴いた時の驚きは今でも忘れられない。なんて表現をするんだろうか!! という驚きである。この驚きはもう一生ないんじゃないかなという位の話である。それくらい当時の私は驚いた。

f:id:YumeCordCore:20180330161315j:plain

 

そのあと、なんとなくローソンで食料をポイントで引き換え、昨日買ったお菓子を並べて写真を撮った。甘い飲み物、低カロリー食品……。そうするとヨーグルトかチーズかなとか思いつつ。ちなみに無駄にカップ麺の写真を一眼で撮影した。

f:id:YumeCordCore:20180330220737j:plain

f:id:YumeCordCore:20180330220836j:plain

 

 

食後、やらなければならない雑務をこなしつつ桜の写真を撮った。いつの間にか周囲は春模様になっていて、時間の進みが早すぎるなんて考えた。懸命に生きたからそう言えるのか、それとも時代から取り残されたからなのか。答えの推測はできているが、このブログには書かない。写真撮影はそれなりに人通りのあるところで行ったので、素早く済ませた。葉桜が桜の形態の中で一番好きだ。

f:id:YumeCordCore:20180330221033j:plain

 

 

晩は一人芝居を見に行った。いつ伺ってもよかったのだが、なんとなく人がいる場所に行きたいなと思っていたため今日にした。ネタバレ等の都合で細かいことは書けないが、ずっしりとくる内容であった。

 

そんな1日だった。

 

 

 

歳を通り越してしまって、過去の人になっていって、だけど人々の気持ちの中には生き続けて。何を書きたいのか毎年分からなくなっていって、この記事を上げるのは5万字の小説を書くより困難で、それで去年は断念して。

何を捨て去ったらうまく物語がまわるかなんて、とある人の占いコーナーでとうに分かった話なのに。

 

収拾のつかない物語.

 

ご冥福、とか安らかになんて言葉は難しくて。そういう言葉より、意味の解釈を始めてしまう。

 

どれだけしたら忘れ去ることができるんだろうね?

 

 

 

 

国際女性デーと家人の誕生日

f:id:YumeCordCore:20180308183352p:plain

2018 年国際女性デーをお祝いしましょう。今日の #GoogleDoodle で世界中の女性たちのストーリーをご覧ください。

 

お久しぶりです、鈴木夢眠です。 本日は国際婦人デーだそうです。ジェンダー学見習いの身としては触れておきたいテーマだなと思い記事を書いてます。

 

そもそも、国際女性デーとは何なんでしょうか? 検索すると以下のように解説されていました。

 

国際女性デー(国際女性の日)*1

毎年3月8日は、女性の権利と世界平和をめざす「国際女性デー」として、世界各国で記念行事や催しが開催されている。20世紀初頭のアメリカにおける女性の社会主義運動に端を発し、女性の選挙権獲得を求めて「女性デー」として集会を行った1909年2月の最終日曜日(28日)が起源とされている。1910年に開催された第2回国際社会主義女性会議(コペンハーゲン)において、クララ・ツェトキン(ドイツの社会主義者・女性運動指導者)らが、女性問題にかかわるあらゆる要求を国際連帯の下に取り組んでいこうと「国際女性デー」を提唱、多数の賛同を得て採択された。このことを契機に、以降女性デーは世界的に広がっていった。国連では、国際婦人年(1975年)に初めて「国際女性デー」が実施され、1977年には国連総会で「国際女性デー」(3月8日)が決議された。日本初の女性デーは、1923年3月8日に「種蒔き社」主催で行われたが、集会は反対派の妨害で混乱し40分後に警察によって解散させられたという。その後戦争などで一時中断した時代を経て、戦後は政党や労働組合婦人部が中心となって全国各地で集会を行うようになった。現在では、一般の女性団体・グループなども、この日を記念にした事業に取り組んでいる。(2004.3)

 

女性の権利と世界平和を目指す、と大きなことが書かれていますが、一般的な人は何をしたらいいのかよく分からないところです。普段より、様々なサイトや企業さんが情報発信をしていることが多いので、興味深くはあるのですが。

 

個人的な話にもっていくと、毎年のように私の誕生日は「国際婦人デー」なんだと宣伝してくる人のことを思い出します。それは、私の母のことなんですが。なぜか、私が割と小さい頃から、毎年「私の誕生日は国際婦人デーだ」と主張します。母は、ジェンダー問題に詳しい人でもないのでなんで知ってるだと今は思いますが、小さい頃は毎年聞き流していました。その発言に意図があったかどうかは分かりませんが、今よりジェンダーやら、女性の権利だとか言われていなかった時代から主張していたということは少し先進的な人だったのかなと解釈することもできます。まあ、たまたま話題になりそうな記念日が国際女性デーだっただけかもしれませんが。

 

最近の女性問題やら、ジェンダー課題を思考して、こねくりまわして、考える日々が続いてます。流石に公式として電子の海に意見を流すだけの覚悟は決まってないのですが、オフラインの場では意見交流を試みたりしてます。討論をしても問題ない立場にようやくなれたところです。閉鎖的な空間では、出る杭は打たれるだけだったので。今が一番楽しい時だと言い切ることができる。

いつか電子の海に情報を発信できる立場になってみたいものです。今回はエッセイということにして誤魔化したけども。

 

 

「3周年」

f:id:YumeCordCore:20180111154842j:image

1月11日、はてなブログさんから3周年お祝いメールが届いた。このブログを始めて3年経ったということらしい。そんな自覚は全くなくて、月日が流れるのは早いなぁと思った。

 今から3年前、このサークルの屋号「夢Code Core」が決まり、ブログを作り投稿した。当初に考えていたこととは関係のないことをやってみたり、寄り道しながらサークルの物語は進んでいる。予定を立てても思い通りにできるだけの技量はないし、作った時に立てた目標を達成しているわけではない。そもそも、設立の時に売りとして書いていた小説は未だに完結していないし、書き切れる自信もない。その作品の色紙をいただいたりしていて、その物語を気にかけてくれている人は確かに存在する。作者の義務としては完成まで話を持って行かなくてはならない。

 2年前だったか、年始に今年度の目標と題した記事を投稿したが、そんなものは達成されなかった。そのため、今年はそのような目標を掲げることはしない。

 

 そもそも年明け1本目の記事がこれになるとは考えてもいなかった。近況報告も兼ねて、最近書いたエッセイを掲載することにしよう。

 

・2018.1.9  「投げつけられた鎖(鎖は投げつけられる)」

 ある人には口癖がある。話相手が言葉を発し、それを一通り聞き終えると、文末にある一言を付随させる。それは必ずといってもいいくらいの確率であった。その口癖は不思議な言葉でもあった。まず、どのような文脈においても違和感がない。そして、相手を不快にさせることはない。便利な言葉であった。しかし、その言葉には重大な欠点があった。それは、特定の界隈に所属してないと真意が伝わらないということだ。界隈に所属していない人間にとって、その言葉は挨拶のようなもので、特定の意味を持ち得ない。特定の界隈に所属している人が聞くと意味を持ち、強い言葉として動き始めるのだ。

 nはその言葉を理解していると考えていた。nは特定の界隈にどっぷりと浸かっていると思っていたし、何よりある人の理解者であるとも思っていた。nは少しだけ優越感に浸っていた。

 しかし、それは誤認でnはとある人の言葉を理解していなかった。というよりも、理解者として認識されていなかった。とある人にとって、nが文意を読むことは想定外だったのだ。

 だからといって、とある人はnを除外することはしない。生かさず殺さず様子を見ることにしたのであった。

 とある人の言葉の強さは日に日に増していき、nは苦しむようになった。しかし、nはその領域から立ち去ることはしなかった。とある人の言葉は私しか理解していないんだ、だから、私が逃げてしまったらとある人の世界は崩壊してしまうと思い込んでいたからだ。

 そんなのはただの思い込み。だけどとある人の言葉はnを絡みとって話さない。鎖とでも言うべきか? 鎖だとしたら名付けなくてはならない。名付けないと、ただ苦しいだけの鎖になってしまう。

 名付けると言っても、どう名付けるのか? なんだか面倒くさい。だけども名付けないと死んでしまう。死なないためにも名付けなくてはならない。



新年始まって、1番最初に思い浮かんだ短編です。領域外伝と言ってもいいけれども、領域の話とも言いきれないなぁってところです。今年もごちゃごちゃ領域の話を書くんだろうなぁと思いつつ、いい加減ちゃんとストーリーのある物語を書きたいとも思いつつ。ストーリー性のある物語の書き方がよくわからなくなってきてもいます。


挨拶が遅れましたが今年も本サークルをよろしくお願いします。


2018.1.13 鈴木夢眠

よくありがちな齟齬について

別に一つのことを記述しているわけではない。最近の話でもない。どこかで起こりうる話であった。いつのことと聞かれても明確さはない。いつのことでもない。どこでも起こりうるがゆえに。

人間はコミュニケーションを取っていた。伝達したいと考えていることには齟齬があった。感情をやり取りしたいのか、それとも思考をやり取りしたいのか。人間はわざわざ確認を取らずに会話を進めていた。

人間の気持ちを一番軽くする方法は何なのだろうか。思考のやり取りによって自己理解を深めるのがよいだろうか? それとも共感による救いか。

そんなことは誰かが答えを出すことではない。考えるしかない。どちらが求められているかと。

人間は誤認する。

 

甘えというものがあまり好きではない。別に存在を否定しているわけではないが。その前に思考することはできなかったのかと。といっても、わからないから甘えるだけであり、それを否定することはできない。否定することはできないというループにはまる。

 

電子の海にわざわざ言葉を流す意味はあるのか。結局、甘えでしかないではないか。ばかばかしい。